ヤマハ

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ヤマハ株式会社Yamaha Corporation)は、楽器半導体スポーツ用品・自動車部品製造発売を手がける日本のメーカーであり、楽器業界の盟主である。ピアノ生産量は世界最大である。本業の楽器以外にも多面的な事業展開をしている。コーポレート・スローガンは「感動を・ともに・創る」。

会社概要

明治時代の創業以来の事業であるピアノ製造をはじめとする伝統的な楽器事業は国内トップブランド[1]でピアノ生産量では世界シェア1位。楽器は機械的な面での質の良さから、海外においても非常に知名度のあるブランドとなっている。

1897年(明治30年)に日本楽器製造株式会社(ニチガク)として発足し、ヤマハYAMAHAのブランド名で展開し、創業90周年に当たる1987年(昭和62年)に社名をヤマハに改称した。

1960年代からエレクトーン電子ピアノ等の電子楽器の開発製造をおこなっており、電子的な音源の開発ではMIDI規格等において規格制定企業となるなど高い技術力を誇る。これらの電子機器の開発から得られた技術力を活かし、半導体等の電子部品、ルーター等のネットワーク機器、オーディオ機器等の製造を行うAV・IT事業でも知られる。

これらの楽器製造から派生した事業として、ピアノの木工加工、塗装等のノウハウを活かし、高級車用の木工パネル製造等の自動車部品事業、楽器の普及のための事業から発展した音楽教室や楽譜・楽曲データ類の出版・ダウンロード販売・アーティストの発掘やそれに付随する音楽出版等の音楽関連事業、音楽をはじめとして生活に彩りを与えるものとして手がけられたリゾート施設等のレクリエーション事業ゴルフクラブを製造するゴルフ・スポーツ用品事業などを本社及び関連会社で行っている。

二輪車製造大手のヤマハ発動機1955年(昭和30年)に日本楽器の二輪製造部門が独立して設立されたものである。2006年(平成18年)時点においては資本関係・取引関係は重要なものではないが、ブランド名を共通とする関連会社である[2]

社章・商標・ロゴマーク

ヤマハの前身である日本楽器製造株式会社が設立した翌年の1898年(明治31年)、社章として「3本の音叉を交叉させたマーク」(音叉マーク)が定められた。[3]
この3本の音叉には、次のような意味が込められている。[3]

  • 「技術」「製造」「販売」の3部門の強い協力体制
  • 音叉に象徴される、音および音楽を中心に世界(外円)にのびゆくたくましい生命力
  • 音楽の基本である「メロディー」「ハーモニー」「リズム」の調和

社章の制定と同時に、商標として「音叉をくわえた鳳凰が定められた。以後、企業の成長とともにこの音叉マークも様々な形を経て、1967年(昭和42年)に統一された。[3]この音叉マークの統一にあわせ、音叉マークとヤマハロゴを組み合わせた「ヤマハロゴマーク」が制定された(ロゴタイプは大文字英字でYAMAHA)。[4]
なお、現在使われているロゴマークは1998年(平成10年)11月にマイナーチェンジされたものである。これには、外円と音叉が黒地に白抜きで表現される「標準形」と、外円と音叉が白地に黒で表現される「特殊形」の2種類がある。[3]
また、日本楽器製造時代には、ヤマハ発動機と共通のカタカナ表記の「ヤマハ」ロゴも使われたが、日本企業各社でCIが盛んであった1987年(昭和62年)の社名改称時にカタカナロゴは廃止された。

ヤマハ発動機との違い

1955年(昭和30年)、日本楽器製造から二輪製造部門が独立・分離する形でヤマハ発動機株式会社が設立された。それ以降、現在においてもヤマハとヤマハ発動機は関連会社とはいえ完全に別会社であるが、音叉マークやロゴマークはヤマハ発動機設立当時に日本楽器製造から引き継がれ、現在も使用している。
しかし、見た目はほぼ同じ図案とはいえ、両者には細部に下記のような違いがある。[4]

異なる点 ヤマハ ヤマハ発動機
音叉マーク 音叉の先端が外円の内側に収まる 音叉の先端が外円に重なる
「YAMAHA」ロゴ "M"の文字の中央部分が下に付いていない "M"の文字の中央部分が下に付いている
アルファベットの文字の形が極く僅かだが左右非対称 各アルファベットの文字の形が左右対称
カラー表示
コーポレートカラー
バイオレット(薄紫色) 赤色

沿革

明治

ヤマハの源流は1887年(明治20年)、山葉寅楠が浜松尋常小学校(現:元城小学校)でオルガンを修理したことがきっかけで、1888年(明治21年)に浜松で日本最初の本格的オルガンの製造に成功したことに始まる。

寅楠は1889年(明治22年)に合資会社山葉風琴製造所を設立(「風琴」ふうきん、というのはオルガンのこと)。1891年(明治24年)には出資引き揚げにより一旦は会社を解散するが、河合喜三郎[5]と共同で山葉楽器製造所を設立した。1897年(明治30年)10月に日本楽器製造株式会社に改組した。当時の資本金は10万円であった。

1916年(大正5年)の寅楠の死後は2代目社長に天野千代丸が就任し、ピアノ製造は一族の山葉直吉[6]らがあたった。1921年(大正10年)には陸軍の要請により、航空機用の木製プロペラの製造を開始し、プロペラの実験用からエンジンも製作した。これは後のヤマハ発動機に至る事業となる。同年8月には西川楽器(西川オルガン)を合併[7]。西川オルガンは1890年(明治23年)の第3回内国勧業博覧会でもヤマハに次ぐ2等賞を得るなど評価が高く、合併後も「Nishikawa」のブランドで製造が続けられていた。この1921年(大正10年)には家具の製作が開始されている。

1926年4月には大規模な労働争議が発生。社外の労働運動家が多く加わり105日間のストライキが実行され、会社役員宅が爆破されるなどの暴力的な騒動にまで至ってしまう[8]。このことが原因となり翌1927年(昭和2年)には天野が辞任。後任に住友電線の取締役であった川上嘉市が3代目社長に就任した。1930年(昭和5年)に釧路工場を大日本人造肥料へ売却し負債を整理し、嘉市は住友財閥の支援も受け、経営の合理化と技術革新でヤマハの再建を果たしたと評されるが、その後に続く「非オーナーでありながら経営者の世襲」という問題を生じた川上親子3代の経営の始まりでもあった。

経営の好転後、1935年(昭和10年)にはヤマハ初の電気楽器「マグナオルガン」を製作、1937年(昭和12年)に管楽器製造をしていた日本管楽器株式会社(ニッカン)の経営を援助し、嘉市が監査役となるなど実質的にグループ化、総合楽器製造企業へ成長しつつあった。

しかし時勢は戦時の雰囲気を強めつつあり、1938年(昭和13年)には陸軍管理下の軍需工場となり、金属プロペラの生産を行い大工場になる。1944年(昭和19年)11月には楽器類の生産は完全休止、1945年7月にはイギリスの戦艦キング・ジョージ5世艦砲射撃浜松の工場が全壊するなどの被害を受け終戦を迎えた。

多角化経営へ

終戦後わずか2か月後の1945年(昭和20年)10月にはハーモニカシロフォンの製造を再開、1947年(昭和22年)4月にはピアノ製造の再開を果たした。1949年(昭和24年)5月に東京証券取引所第1部に上場
  1. 出典:日経リサーチが実施した2006年(平成18年)企業ブランド調査、2006年(平成18年)6月29日日経産業新聞
  2. 両社間でデザイン交換の試みも為されている。 (2015-02-26) バイクと楽器の「ヤマハ」、デザイン交換 YOMIURI ONLINE [ arch. ] 2015-03-06
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 音叉マークの歴史
  4. 4.0 4.1 ヤマハロゴマークの歴史
  5. カザリ職人。技術のみならず、金銭的にも寅楠を援助をした。河合楽器製作所創業者一族とは無関係。
  6. 寅楠の姉の婿。
  7. 西川オルガンの創設者の西川寅吉は1884年(明治17年)頃に風琴の試作に成功したとされ、これが事実であれば寅楠より先に製造していたことになる。現在のヤマハによる沿革紹介でも自らが「日本初」であったとは明記していない。
  8. 参考文献:大庭伸介著『浜松・日本楽器争議の研究』、五月社、1980年