ルシタニア号事件

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ルシタニア号事件は第一次世界大戦中の1915年 アイルランド沖を航行していた英国籍の客船ルシタニア号が1915年5月7日ドイツ海軍のUボートから放たれた魚雷によって沈没し、米国人128人を含む1198人が犠牲となった出来事である。

当時は「孤立主義」をとっていたアメリカ合衆国は対岸の火事視していたが、ルシタニアの犠牲者の中に128名ものアメリカ人旅行客が含まれていたことから、アメリカ国内ではドイツに対する世論が急速に悪化し、アメリカ参戦の伏線となった。

経過

1915年5月1日、ルシタニア号はニューヨーク港54番埠頭から出港し、大西洋を無事通過したあと、1915年5月7日アイルランド南部を通過していた。ドイツのUボートは、霧が深くなったことを心配したシュヴィーガー艦長の判断でドイツへ寄港する予定であった。イギリス軍は、ロシアから渡されたドイツの暗号機械によって暗号解読に成功し、ドイツの潜水艦の動きを事前に知ることができていた。しかしドイツ側に暗号解読を知られないようにするため、ルシタニア号の先に進路を変えたUボートが接近していることを知りながら、連絡できなかった。ルシタニア号のターナー船長は、救命ボートの訓練をしていなかった。

シュヴィーガー艦長はイギリスの軍艦図鑑を手元に常備しており、そこルシタニア号が掲載されていたため、シュヴィーガー艦長はルシタニア号を「軍艦」と判断していた。イギリス国旗の掲げられていなかったルシタニア号に1発の魚雷を放った。シュヴィーガー艦長は船から海に飛び込んでいく大勢の人々の姿を見て、2発目を撃つのをやめた。アイルランドの漁師に水中から引き揚げられて助かった乗客たちの証言では、爆発は2回起きていたとされていた。そこからイギリスのチャーチル海軍大臣は、ドイツは魚雷を2発撃ったと主張した。 豪華客船ルシタニア号は、実は数多くの兵器を積んでいた。173トンの弾薬を積んでいたから、当時の国際法では、ルシタニア号は攻撃を受けてもやむをえなかった。ドイツ大使館も事前に米国民へ船に乗らないようにと警告を発していた。最近の海底調査で、沈没したルシタニア号の船内には違法な武器と火薬が積載されていたことが判明している。2回目の大爆発は、潜水艦艦長の「火薬の誘爆を認める」とある通り、ルシタニアに積まれていた弾薬によるものであった。高圧ボイラーの爆発説及び石炭庫の粉塵爆発説は爆発規模から否定されている。

魚雷は1発だけだったと見聞した事実を証言したフランス人の人格をイギリス軍は貶め、新聞にを中傷する記事を載せた。ルシタニア号の犠牲者の様子を伝える新聞には、捏造された写真も掲載されていた。その頃、ドイツの会社が販売したルシタニア号の撃沈を記念したメダルに誤って5月5日と刻印されていたため、ドイツ政府はメダルをすぐに発売禁止にした。イギリスはそのメダルは、ドイツが2日前から沈没を計画していた証拠であると情報を捏造して広め、「反ドイツ」の風潮を高めるものとした。沈没の責任は次第にルシタニア号のターナー船長に向けられるようになった。

イギリス政府は「イギリスの正義」を守るためにルシタニア号の沈没の真相を隠蔽し、その情報戦によってイギリス国内やアメリカ国内の人々の社会への怒りを「反ドイツ」の戦争へ向けることに成功した。 戦後の1973年になって、アメリカ人のジャーナリストが、アメリカの記録中からルシタニア号の積荷の資料を見つけ、毛皮とされていた積荷が実は兵器であったことを突き止めた。イギリス政府はノーコメントだったが、1982年になり、潜水士が沈んでいるルシタニア号の調査の申し入れをした際、人命救助の考えから調査の危険性を伝えるために、イギリス政府はルシタニア号の積荷が兵器だったことを始めて認めた。 当時のハウス大佐と英国外交官エドワード・グレイ卿の会話記録。 グレイ「もしドイツ軍が米国旅客船を沈めたらどう反応するだろう?」 ハウス「怒りの炎が米国中に広がり、我々を着実に戦争へ導くだろう」 犠牲者に128名のアメリカ人がふくまれていたため、当時まだ参戦していなかったアメリカ国内で、世論が開戦に傾くきっかけとなった。イギリスの秘匿作戦が功を奏したことになる。