「中村恭平 (教育者)」の版間の差分

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== 経歴 ==
 
== 経歴 ==
1855年7月4日(安政2年5月21日) 三河国田原藩に生まれる。1870年(明治3年)、大学南校(後の東京大学)へ入学する。1878年(明治11年)東京大学仏語物理学科第1期を卒業する。1881年(明治14年)東京物理学講習所の創立者の一人となる。
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1855年7月4日(安政2年5月21日) 三河国[[田原藩]]に生まれる。1870年(明治3年)、[[貢進生]]となって[[大学南校]](後の東京大学)へ入学する。1878年(明治11年)東京大学仏語物理学科第1期を卒業する。1881年(明治14年)東京物理学講習所の創立者の一人となる。
 
1885年(明治18年)[[東京物理学校]]維持同盟員となる。中村恭平は化学の講義を受け持っていた。
 
1885年(明治18年)[[東京物理学校]]維持同盟員となる。中村恭平は化学の講義を受け持っていた。
長崎師範学校教諭、文部省属となる。
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[[長崎師範学校]]教諭、文部省属となる。
1887年(明治20年)、1月福島尋常師範学校(現在の[[福島大学]])校長となる。
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1887年(明治20年)、1月[[福島尋常師範学校]](現在の[[福島大学]])校長となる。
 
1895年(明治28年)12月、 福島県尋常師範学校校長を辞する。
 
1895年(明治28年)12月、 福島県尋常師範学校校長を辞する。
 
1898年(明治31年)、東京帝国大学(現在の東京大学)舎監となる。学生監を兼務。
 
1898年(明治31年)、東京帝国大学(現在の東京大学)舎監となる。学生監を兼務。
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== エピソード ==
 
== エピソード ==
*中村恭平との親交を通じて「物理学校」を知っていた漱石は「坊っちゃん」を「物理学校に」入学させ、卒業させている。
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*中村恭平との親交を通じて「物理学校」を知っていた漱石は「坊っちゃん」を「物理学校」に入学させ、卒業させている。
 
*中村は、「吾輩は猫である」の苦沙味先生のモデルと言われている。
 
*中村は、「吾輩は猫である」の苦沙味先生のモデルと言われている。
  

2018年9月8日 (土) 20:43時点における最新版

中村 恭平(なかむら きょうへい、1855年7月4日 - 1934年1月21日)は、日本の教育者。東京物理学校第3代校長、東京帝国大学助教授。夏目漱石と親交をもつ。

経歴[編集]

1855年7月4日(安政2年5月21日) 三河国田原藩に生まれる。1870年(明治3年)、貢進生となって大学南校(後の東京大学)へ入学する。1878年(明治11年)東京大学仏語物理学科第1期を卒業する。1881年(明治14年)東京物理学講習所の創立者の一人となる。 1885年(明治18年)東京物理学校維持同盟員となる。中村恭平は化学の講義を受け持っていた。 長崎師範学校教諭、文部省属となる。 1887年(明治20年)、1月福島尋常師範学校(現在の福島大学)校長となる。 1895年(明治28年)12月、 福島県尋常師範学校校長を辞する。 1898年(明治31年)、東京帝国大学(現在の東京大学)舎監となる。学生監を兼務。 1902年(明治35年)山川健次郎(当時、東京帝国大学総長)の秘書となる。 1904年(明治37年)、東京帝国大学助教授となり、夏目漱石(同大学講師)と親交をもつ。中村恭平は「物理学校」の幹事・主計として実質的に経営と教育の責任者であった。「今日も金之助が来た。相変わらず、ずうずうしい男である」と忌憚のない発言をしていた。 1907年(明治40年)、学生監専任となる。 1913年(大正2年)東京物理学校に、幹事兼主計として常勤する。昼間は東京帝国大学、夜間は東京物理学校に通う。1923年(大正12年)東京帝国大学書記官を辞する。 1930年(昭和5年)1月7日 、東京物理学校の第3代校長となる。1934年(昭和9年)1月21日、 死去により、東京物理学校校長を辞する。80歳。

エピソード[編集]

  • 中村恭平との親交を通じて「物理学校」を知っていた漱石は「坊っちゃん」を「物理学校」に入学させ、卒業させている。
  • 中村は、「吾輩は猫である」の苦沙味先生のモデルと言われている。

参考文献[編集]