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[[越後国|越後]](現在の[[新潟県]])出身。[[慶応]]4年([[1868年]])閏4月、[[伊勢国|伊勢]][[桑名藩]]の[[飛び地]]である越後柏崎で[[松平定敬]]が軍制を敷くと、内山は御勘定方御勘定下役となり、[[北越戦争]]から[[会津戦争]]、[[仙台戦争]]と各地を転戦し、[[明治]]元年(1868年)[[9月17日]]に同志17名と仙台で新撰組に入隊した。[[榎本武揚]]の[[蝦夷]]上陸に従い、その際における七重村の戦闘([[10月24日]])において軽傷を負った<ref name="相川p433"/>。
  
明治政府の記録では「東組二番、内山與八」として箱館市中の警備を務めていたとある(『明治2年([[1869年]])1月の官軍探索書『箱館警備者リスト』より)。官軍の箱館総攻撃により[[5月15日]]、弁天台場で降伏した<ref name="相川p436"/>。[[青森]]の[[弘前藩]]の寺院で[[謹慎]]を命じられた後、[[東京府]]に移送されて[[11月11日]]に故郷の桑名藩へ身柄を引き渡された<ref name="相川p433"/>。国許で謹慎したが、明治3年([[1870年]])1月に赦免された<ref name="相川p433"/>。
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明治政府の記録では「東組二番、内山與八」として箱館市中の警備を務めていたとある(『明治2年([[1869年]])1月の官軍探索書『箱館警備者リスト』より)。官軍の箱館総攻撃により[[5月15日]]、弁天台場で降伏した<ref name="相川p433"/>。[[青森]]の[[弘前藩]]の寺院で[[謹慎]]を命じられた後、[[東京府]]に移送されて[[11月11日]]に故郷の桑名藩へ身柄を引き渡された<ref name="相川p433"/>。国許で謹慎したが、明治3年([[1870年]])1月に赦免された<ref name="相川p433"/>。
  
 
== 脚注 ==
 
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2015年4月4日 (土) 20:55時点における最新版

内山 栄八(うちやま えいはち、生没年不詳)は、江戸時代末期(幕末)の武士箱館新選組の第2分隊平士。名の表記は與八とも[1]

略歴[編集]

越後(現在の新潟県)出身。慶応4年(1868年)閏4月、伊勢桑名藩飛び地である越後柏崎で松平定敬が軍制を敷くと、内山は御勘定方御勘定下役となり、北越戦争から会津戦争仙台戦争と各地を転戦し、明治元年(1868年)9月17日に同志17名と仙台で新撰組に入隊した。榎本武揚蝦夷上陸に従い、その際における七重村の戦闘(10月24日)において軽傷を負った[1]

明治政府の記録では「東組二番、内山與八」として箱館市中の警備を務めていたとある(『明治2年(1869年)1月の官軍探索書『箱館警備者リスト』より)。官軍の箱館総攻撃により5月15日、弁天台場で降伏した[1]青森弘前藩の寺院で謹慎を命じられた後、東京府に移送されて11月11日に故郷の桑名藩へ身柄を引き渡された[1]。国許で謹慎したが、明治3年(1870年)1月に赦免された[1]

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 相川、2011年、p.433

参考文献[編集]