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華人会館の中には、創立×周年記念などの特別出版物(Anniversary Souvenir Mgazine)を発行している団体が多く、その会館の沿革や所在地の変遷、活動状況、会員の動向、関連団体などを知るのに参考になる。{{Sfn|山下|1988|p=105}}
 
華人会館の中には、創立×周年記念などの特別出版物(Anniversary Souvenir Mgazine)を発行している団体が多く、その会館の沿革や所在地の変遷、活動状況、会員の動向、関連団体などを知るのに参考になる。{{Sfn|山下|1988|p=105}}
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2018年12月16日 (日) 00:29時点における版

同郷会館(どうきょうかいかん)は、シンガポールの華人社会における地縁的社会組織。(山下 1988 48-49)

会館

会館は、中国政府や英植民地政府による保護や援助を受けられないままシンガポールで活動する華人の生活を支えるための自衛組織、相互扶助組織として組織され、会員の就職の斡旋や、廟や共同墓地、病院、養老院などの建設や管理を行い、会員間の紛争を調停するなどの活動を行った。また学校経営や奨学金の提供、生活困窮者などの経済的援助を行うこともあった。[1]

会館の施設自体が会員の交流の場となり、精神的な拠り所にもなっていた。[1]

地縁的組織である同郷会館のほかに、血縁的組織である同姓会館や、同業的組織である同業会館(行会)も存在するが、同姓会館の会員や同業会館の会員も、実質的には同じ華人方言集団に属する場合が多い。[2]

歴史

会館は、1819年にラッフルズEnglish版がシンガポールを自由港として開放した頃から、華人の居住区として指定されたシンガポール川の南岸・大坡地区に多く設立された。最初期の会館として、1822年に大坡のテロック・アイェール街English版に建てられた、客家人の同郷会館・応和会館がある。同じ通り沿いには1820年頃に広東人と客家人が共同して海唇福徳祠を建立し、1821年に福建人系の天福宮の前身となる廟も建立されている。[3]1850年頃までに建てられた会館や廟はほとんどが大坡地区にあり、例外的に1835年以前にロコール川の河口の北側に建てられた広東人系の広福古廟があった。[4]

その後、1890年頃までに、当初ヨーロッパ人の居住区として割当てられていたシンガポール川の北岸地区にも華人の居住が進み、会館が建立されるようになった。海南人系の瓊州会館は1857年にマラバー街English版に建立され、1880年にビーチ路English版沿いに移転した。北岸地区のビーチ路沿いには、他にも客家人系の豊順会館三和会館が設立された。[5]

1940年頃までには、ニュー・ブリッジ路English版サウス・ブリッジ路English版沿いに、潮州人系の会館がシンガポール川の河口付近の南北両岸に、広東人系の会館がクレタ・アイェール(牛車水、チャイナタウン)English版の辺りに数多く設立された。[6]

1942年2月15日の日本のシンガポール占領から終戦に至るまでの期間は、華人会館は閉鎖された。[7]

1965年のシンガポールの分離独立後、急速な工業化と都市再開発によって会員の居住地が分散し、伝統的な華人方言集団の住み分けは崩壊しつつある。大坡の市街地中心部にあった華人会館の3割程度は郊外へ移転した。そのうち3割程度は、東郊のゲイランEnglish版地区に移転している。[8]

資料

華人会館の中には、創立×周年記念などの特別出版物(Anniversary Souvenir Mgazine)を発行している団体が多く、その会館の沿革や所在地の変遷、活動状況、会員の動向、関連団体などを知るのに参考になる。[9]

外部リンク

付録

脚注

参考文献

  • 山下 (1988) 山下清海『シンガポールの華人社会』大明堂、1988年、ISBN 4470430226