宮崎知子

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死刑囚・宮崎 知子
死刑囚・宮崎 知子

宮崎 知子 (みやざき ともこ、1946年2月14日 - )は、1980年2月に富山県女子高生の長岡陽子さん(享年18歳)を殺害し、次いで3月に長野県長野信用金庫職員・寺沢由美子さん(享年20歳)を殺害した死刑囚である。

警察庁広域重要指定111号事件に指定された。犯行現場で赤いフェアレディZが目撃されていたことから「赤いフェアレディ事件」とも呼ばれる。

事件

富山県・長岡陽子さん殺害

1980年2月23日、富山県八尾町県立八尾高校3年・長岡陽子さん(18歳)が行方不明となった。

ギフト店『北陸企画』経営者の宮崎からアルバイトの話を持ちかけられ、宮崎が運転する日産スポーツカー・フェアレディZに乗せられ誘拐された。

長岡さんは2月23日、父の車で今春入学予定の金沢市の調理専門学校を、女友達と一緒に訪ね、父はそのまま車で帰った。長岡さんは女友達と19:00に富山駅で別れ、それっきりになっていた。

2月24日、25日に富山市内の贈答品卸業者の事務所にアルバイトに誘われ泊まった、と長岡さんは自宅に電話を入れていたが、2月27日朝には富山市太郎丸の喫茶店に来るように見知らぬ女から長岡さんの自宅に電話が入っていた。

知らない女の声で「娘さんを預かっている。そのことで相談したい」という電話があった。

26日、陽子さんの母親は警官と一緒に陽子さんが電話でが話していた富山市内のギフト会社『北陸企画』を訪ねたが、そこにいた女は「そんな子は知らない」と否定した。

この日、岐阜県のラーメン店で、宮崎、宮崎の愛人・北野宏、陽子さんの3人が目撃されている。ラーメン店を出てから数時間後、陽子さんは宮崎に車内で睡眠薬を飲まされて昏睡状態のところを絞殺され、雑木林に遺棄された。

1980(昭和55)年3月6日朝、岐阜・吉城郡古川町戸市数河峠近くの山林で女性の絞殺体が見つかり、2月23日夜から行方不明となっていた富山・婦負郡八尾町の、八尾高校家政科3年の長岡陽子さん(18)と判明した。首には花結びにされた紐が巻き付いていた。

長野県・寺沢由美子さん殺害

3月5日、長野信用金庫職員・寺沢由美子(20歳)が仕事から帰宅する途中、こつぜんと姿を消した。宮崎に言葉巧みに誘われフェアレディZに乗せられて誘拐された。

翌日6日の早朝、由美子さんは絞殺されて町道の脇に遺棄される。その後、宮崎が家族に電話。

夕方、由美子さんの自宅に女の声で「お嬢さんを預かっている。明日10時までに3000万円を姉に持たせて長野駅まで持ってくるように」という電話が入り、家族が家に10万円ほどしかないことを伝えると電話は切れた。

翌日7日の朝に長野県警は特別捜査本部を設置し、捜査を開始。10時、長野駅の構内放送で家族が呼び出され、宮崎からの電話を受ける。家族が10万円しか用意できなかったことを話すと、宮崎は怒って、昼まで待つと言って自宅で電話連絡を待つよう指示。昼過ぎに宮崎から電話。

「2時に2000万円を持って長野駅に来て、4時38分発の列車に乗って高崎駅で降りて待て」

受け渡し場所は高崎駅前の喫茶店だったが、宮崎は現れず、電話は途絶えた。

3月27日、由美子さんが行方不明のまま、警察は公開捜査に踏み切る。 

この富山、長野の両県警は2つの事件の手口が似ていることから、同一犯による犯行と断定。さらに2つの事件の犯行現場では、ともに眼鏡をかけた女と赤いフェアレディZが目撃されてた。   3月30日、富山市のギフト会社経営・宮崎知子(当時34歳)と、その愛人の北野宏(当時28歳)が逮捕された。宮崎と北野宏は由美子さんいなくなった前後に長野市内のホテルに3泊していたことや、フェアレディに乗っていた女に酷似したことからマークされていた。そして声紋鑑定の結果、宮崎の声と身代金要求電話の声が一致。

捜査によって由美子さんが車に乗せられる数時間前から、宮崎が若い女性に「お茶を飲みませんか」と声をかけていたことが判明。

4月2日午後、長野県小県郡青木村の林道わきに女性の遺体があるのをを通りかかった男性が見つけた。遺体は由美子さんのもので、失踪当日のままの服装で頭を谷に向けて倒れていた。首には紐が巻きついており、やはり花結びにされていた。

犯行の動機

宮崎は富山県生まれ。生活保護受給家庭で育ったが、成績はトップクラスだった。短大に進学希望するも、家庭の事情で断念、保険会社化粧品販売会社に勤める。やがて上京して結婚埼玉県で暮らし、男児が誕生するも、やがて離婚。子供を連れて富山県に戻るが、父親が死亡。結婚相談所で再婚相手を探しながら、朝も夜も働き、一家を支えた。やがて夜の仕事仲間を介して北野宏と知り合う。北野宏にはすでにがいたが、同棲生活を始める。

宮崎は北野宏とギフト店の経営を始めるも、すぐに経営難に陥り、サラ金に手を出して数千万円の借金を負ってしまう。そこでMはかつて勤務した保険会社で得た知識を悪用し、結婚相談所に紹介された男性を保険金殺人のターゲットにして、海岸に誘い出し麻酔薬をかがせたが未遂に終わる。

やがて返すあてのない借金をしてフェアレディZを購入。このころから誘拐で大金を得ることを考え始め、とうとう実行するに至る。

フジテレビドラマ『実録犯罪史シリーズ』では、宮崎を室井滋が演じた。

人物

宮崎は1946年2月、富山市で生まれた。2人の兄と姉1人がいたが、宮崎だけ父親は違った。

未亡人となった母親が出産したもので、父親から認知されたのは中学に入ってからだった。両親は自転車業を始めたが、生活保護を受けていた。宮崎は中学ぐらいまで成績もトップクラスだったが、どちらかと言えば目立たない生徒だったという。

3月30日、殺害された女子高校生が「アルバイト先」と口にしていた『北陸企画』の共同経営者、宮崎知子と北野宏が逮捕される。さらに4月21日にOL誘拐殺人容疑で両名が再逮捕。マスコミは、真っ赤な高級車をのりまわし、流行のファッションに身を包んだ派手な知子に注目し、連日報道した。

宮崎知子は、1946年2月14日上新川郡月岡村(現在は富山市に編入)で生まれた。母親は前夫に先立たれたのち、所帯持ちの男と通じて知子を産んでいる。父が彼女を実子と認知したのは13歳のときで、それまでは庶子扱いであった。

しかし認知するしないに関わらず、父親は知子を溺愛した。反対に、母親は兄2人のみに愛情を注ぎ彼女には見向きもしなかった。

知子は幼い頃からヒステリー性で、癲癇の発作をたまに起こし、口から泡を吹いて失神することがあった。性格は内向的で親しい友人もなかったが、成績はつねにトップクラスであったという。また虚言癖はこのころから表れはじめている。

富山県立富山女子高等学校(現・富山県立富山いずみ高等学校)を卒業後、宮崎は県外にある女子短大に進学を希望したが、学費の工面がつかず断念し、市内の保険会社に就職した。しかし、2、3ヶ月ほどで辞め、化粧品店のチャームガールを務めるようになった。

1965年、宮崎は東京に憧れ家出。そこで4歳上の自動車セールスマンと知り合い、23歳で彼と結婚して埼玉に住み始めた。やがて長男が誕生するが、1972年に卵巣嚢腫になり卵巣摘出手術を受ける。その闘病中に夫が浮気し、さらに彼が会社の金を使い込んでいたことが発覚したため、離婚せざるを得なくなった。一家は夜逃げ同様に姿を消したり、夫の転職に伴い、夫婦仲は冷め、結局、夫妻は離婚し、1973年富山市に戻って両親と息子の4人で暮らし始めた。

失意のうちに故郷へかえった知子は重ねて腹壁ヘルニアにかかり、再手術を受けることになる。その上、退院してすぐの1975年に父が死去。知子はたてつづけに起こる不幸に、ほとんど茫然自失となった。宮崎は一家の生活費を稼がなければならなかった。結婚相談所で金のある男を探す傍ら、コールガールの仕事をするようになった。

1977年9月、コールガール仲間から北野宏という男を紹介された。北野宏は宮崎より6歳下でハンサムな男だった。2人の仲は急速に縮まったが、大きな問題点として彼には妻がいた。しかし、2人は同棲を始めた。

知子は31歳。北野は25歳で、まだ新婚8ヶ月目であった。馴染みの売春婦から紹介され、知子を一目見た北野は、彼女の頭の回転の速さと都会的なセンスにまず惹きつけられた。彼は知子の

「父親が大地主の息子で、放蕩はしたけれど、かなりの資産を残してくれた。だからお金には困ったことがないわ」

という嘘を信じこみ、且つその知性に全幅の信頼を寄せてしまう。確かに知子は知能が高かった。知能指数はのちの調べによると138。

1978年、宮崎は北野宏と共同で「北陸企画」という店を経営するようになった。商売をしていたら、北野宏と一緒にいても不倫とは気づかれにくいから、というのがその理由だった。業務内容は100円ライターやマッチなどのギフト品の販売で、どちらかと言えば北野宏より宮崎の方が積極的に営業して回った。収入はさほどでもなく、知子は「こんな小商いじゃしょうがないけど、頭を使えば大金が入るわ」 というのが口癖だった。「北陸企画」はすぐに行き詰まり、借金返済に苦しむようになった。

1979年春頃、知子は結婚相談所で紹介された男性に9,000万円の保険金をかけ、殺害計画をたてる。共犯は顔見知りの喫茶店経営の女性を引きずりこんだ。男に「強精剤よ」と偽ってクロロホルムを嗅がせ、眠らせてから溺死させる腹づもりであったが、彼がいつまでたっても眠らず「頭が痛い」と訴えるだけだったので、仕方なくこの計画は中止になった。

それから半年、知子は新たに結婚相談所で知り合った男から金を借りたり、北野の印鑑証明でサラ金から融資を受けたりなどして食いつないだ。

1979年8月、 しかしそのかたわら、当時の最高級車であるフェアレディZを無理に購入もしている。そのときの知子の台詞は「私のようなエレガントな女には、このくらいのグレードの車でなくては」というものだった。

1980年に入ると、2人はもう商売をなげており、朝からぶらぶらと遊んで暮らすようになった。赤いフェアレディ280Zを車好きな北野宏と宮崎は店舗のショーケースなどを取っ払って車を入れ、よく磨いていたという。しかし、実際には宮崎は経済的にかなり追い詰められていた。「誘拐」を考え始めたのもその頃だった。

2つの事件

2月23日、富山駅で陽子さんに「ギフト会社を経営している。アルバイトしない?」と声をかけた。陽子さんは宮崎の話を信用した。

のちの供述によると、25日の深夜に彼女は絞め殺されている。知子は少女の家に身代金要求の電話をするが、2度かけて2度とも両親ではなく祖父が出た。

その様子があまりに頼りなさそうだったので、「これは、受け渡しはうまくいかないかもしれない」と判断し、以後の連絡をやめてしまう。

宮崎は陽子さんを「北陸企画」に連れこみ、そこに泊めていた。脅迫電話をかけた後、陽子さんは「帰る」と言い出した。

「このまま帰せば警察にバレてしまう」と思った宮崎は、25日午後に陽子さんをドライブに連れだし、睡眠薬で眠らせてから絞殺。遺体を岐阜県古川町に捨てた。

新たなターゲットを探すべく、知子は富山を離れることにした。

3月3日、宮崎は北野に「東京の前夫から貰うお金がある。立ち会って欲しい」と告げ、フェアレディで富山を出た。2人は長野市のホテルに泊まり、3月5日は北野をそこに置いて、宮崎1人で出かけた。


3月5日17:20、長野市北石堂の長野信用金庫石堂支店で友人と2人で職員の寺沢由美子さん(20)が退社、隣の喫茶店でコーヒーを飲み、18:30に200メートル離れた千石前バス停にいるのを目撃されたのを最後に行方不明となった。

午後6時半頃、長野市末広町の千石前バス停で、宮崎は仕事を終えて帰宅中の由美子さんを長野市内のバス停で、「このへんに店を出す予定なので、若い女の子の意見が聞きたい」と声をかける。

お茶に誘い、近くの喫茶店でしばらく話した。さらに長野駅近くに停めてあったフェアレディで郊外のレストランに食事に行き、電話番号を聞いた。

2人はこのあと3時間ほど松本方面へドライブ、明科町から上田方面に入る山道に入り、睡眠薬を飲ませ、眠っていた由美子さんの首を浴衣の帯で絞め殺害。被害者の財布から金を抜き取ると、死体を遺棄した。近くでこの帯は前日に宿泊した長野市内のホテルから持ち出してきた物。遺体を崖下へ突き落とした。

その間、腎臓病で具合のよくなかった北野はホテルで待機していた。

来た道を引き返し、北野が宿泊している長野市の「ホテル日興」に戻った。ホテルに戻った知子は、北野に

「これで美味しいものでも食べなさい」

と、その中から5千円渡している。何も知らぬ北野は言われるがままにその金で肉を食べたが、のちに警察で金の出所を知らされ、ショックを受けたという。

翌日の午後には2人で軽井沢方面へドライブに行き、その途中で由美子さんの父親の勤め先や自宅に身代金3000万円を要求する電話をかけた。

3月6日夕方に、見知らぬ女の声で、寺沢さんの父(54)の会社に、18:30までに寺沢さんの父に帰宅するようにと電話が入り、自宅に「寺沢さんを誘拐したので、明日の10:00までに姉に3,000万円を持たせて長野駅の新しい待合室に出向くように」と指示する電話が入った。   3月7日10:00、寺沢さんの姉は10万円を用意、長野駅の構内放送で電話口に呼び出されたが、10万円しか持ってきていないと知ると、宮崎は「はした金では応じられぬ」と電話を切った。

その後、4回目の交渉で2,000万円で決着、寺沢さんの姉は宮崎の指示通りに2,000万円を持って長野発、16:38の上野行き、「あさま16号」の6号車グリーン車前方に乗り込んだ。切符は上野まで買わされたが、高崎駅で18:40に下車、待合室に案内所に電話がかかっているとの呼び出しがあり、寺沢さんの姉が出向くと、喫茶店「ポンテ」に行くように犯人に言われた。

しかし1時間30分後、寺沢さんの姉を取り巻いていた捜査員の存在に気づかれ、真向かいのレストラン「ナポリ」へ移動するように犯人は要求、22:00には「明日の正午にまた来い」と犯人から電話が入り、切れた。その後、犯人からの連絡は途絶えたが、3月27日発売の『週刊新潮』がこの事件を報道する事となり、この日、公開捜査となった。

警察は富山・長野両県にまたがる連続誘拐・殺人事件として「広域重要111号」に指定し大掛かりな捜査を展開。

やがて、誘拐された付近の目撃者の証言で「フェアレディに乗った大きなサングラス(トンボメガネ)の綺麗な女性」がクローズアップされた。

捜査本部が近県の「フェアレディZ」を所有している女性を調査した結果、富山・富山市で贈答品販売店を営む宮崎知子(34)と共同出資者の北野宏(28)を犯人と断定し3月30日21:00に逮捕した。

「フェアレディ」を乗り回す美人女性と年下の男が仕組んだ誘拐・殺人事件として報道もエスカレートしていった。当時の警察やマスコミは主犯を北野、宮崎が従犯という構図を描いた。取調べでも警察は北野に対して「男のけじめをつけて全て白状しろ」と強要。女に(宮崎)に全ての責任をなすりつけるのは男らしくないと詰め寄った。警察は「女ひとりにできる犯行ではない。主犯は男だ」と判断し、北野を苛烈に尋問。知子もその尻馬に乗るようにして「年下の恋人(北野)に捨てられたくない一心で、言いなりになった」と供述したため、北野は追いつめられ、自白調書に判を押させられるはめになった。

しかしその後の弁護士の助言により、公判開始後は自白は強制されたものだとして容疑を否定。北野はのちの供述で「彼女を女神のように崇拝していた時期もありました」 と述べている。

北野は「犯行に関しては一切感知していなかった。宮崎に言われて運転しただけ」と供述を繰り返した。一方、宮崎は真犯人は別人として容疑を一切否認した。

裁判

1986年、知子は3たび病に倒れ、子宮筋腫で刑務所内で手術を受けた。1988年2月、富山地裁は知子に死刑を宣告。対する北野を無罪とし釈放した。知子は控訴するが、1998年、最高裁で死刑が確定となった。

知子が『死刑執行停止連絡協議会』の総会に寄せた文章。

「本来、刑罰は、悪いことをした人を、二度と罪を犯さないように矯正するのが目的のものです。死刑という刑罰は、この基本に反します。“矯正の余地のない者のみ死刑”と決められていますが、余地がないと何故判断できますか。矯正の機会を与えないで、何故判りますか。死刑を廃止し、被告を矯正できる事、矯正の余地のない人間なんていない事を、どうか真剣に考えて下さい」

第一審

逮捕前後の2人の供述などを証拠として、検察は2人を身代金目的誘拐罪殺人罪などで起訴

1980年5月13日 富山地裁で初公判。検察側は冒頭陳述で「富山・長野の両事件とも、両被告が身代金目的の誘拐を事前共謀し、誘拐を宮崎、殺害は北野宏、死体遺棄は両被告が実行した」とし、「北野宏が犯行を主導し宮崎が従った」と主張した。罪状認否で宮崎は誘拐を否認。北野宏は「宮崎から政治資金絡みで金が入ると聞かされていただけ。誘拐殺人などは全く知らない」として無罪を主張した。

1985年3月6日 約5年間の審理によって、富山事件の発生時に北野宏が自宅にいたこと、長野事件の殺害の実行の際はホテルで待機しており、アリバイが存在したこと――が判明したことから、検察側は冒頭陳述の内容を18か所にわたって変更。「両被告は事前共謀をしたが、誘拐、殺害、死体遺棄、身代金要求の実行行為はすべて宮崎が行った」としてこれまでの主張の構図を一転させ、「主導者は宮崎で北野宏は共謀共同正犯」とした。

1987年4月30日 検察は論告で宮崎に死刑、北野宏に無期懲役求刑。宮崎は「富山事件は北野宏の単独犯行。長野事件では誘拐、死体遺棄、身代金要求は行ったが、殺害は北野宏が1人でやった」と北野宏主導説を主張。一方、北野宏は「宮崎は7年間嘘をつき通し、私に罪をなすりつけてきた。私が無期懲役を求刑されたのも全て宮崎の嘘が原因」と宮崎単独犯説を述べ、これまでどおり自身の無罪を主張した。

1988年2月9日 判決公判。宮崎は死刑。一方、北野宏については、富山事件で誘拐、殺害の前後に両被告が頻繁に電話連絡したり、長野事件で身代金受け渡し現場に両被告が一緒にやって来たことについて「宮崎から嘘のもうけ話を聞かされて事件を全く気づかなかった」とする北野宏の証言を真実性が高いと判断。実行行為も共謀も行っていないとして、北野宏に無罪を言い渡す。検察は北野宏について控訴。宮崎は自身について控訴。

第二審

1992年3月31日 名古屋高裁金沢支部が検察と宮崎の控訴を棄却。宮崎は上告。検察は上告せず、北野宏の無罪確定。

1998年9月4日 最高裁で上告棄却。宮崎の死刑確定。宮崎は女性死刑囚としては連合赤軍事件永田洋子以来で、戦後7人目。

再審請求

2007年3月23日 富山地裁が宮崎の再審請求を棄却。

2013年現在、宮崎は名古屋拘置所に収容されている。一時期獄中結婚で苗字が変わっていたが、再び元の苗字に戻っている。

連続誘拐殺人、宮崎死刑囚の再審請求を棄却(2013年3月)

富山、長野両県で1980年、女性2人が相次いで誘拐・殺害された「富山・長野連続女性誘拐殺人事件」で、身代金目的誘拐や殺人などの罪で死刑が確定した元贈答品販売会社経営、宮崎知子死刑囚(67)の2回目の再審請求について、富山地裁(田中聖浩裁判長)が棄却した。

棄却は2月25日付。同地裁は「新規性が無く、理由がない」などとした。弁護側は3月1日名古屋高裁金沢支部に即時抗告した。

宮崎死刑囚は「物証が乏しく、客観性がない」などとして2003年に富山地裁に再審を請求したが、2007年3月に同地裁が棄却、2011年7月に最高裁が特別抗告を棄却した。弁護側は同8月15日、富山地裁に2回目の再審請求をしていた。

名誉毀損訴訟

宮崎は裁判中から、事件報道をしたマスコミ各社に名誉毀損を理由に損害賠償請求訴訟を起こしては和解を繰り返していたが、唯一、彼女と和解の道を選択しなかったのは、作家佐木隆三出版社徳間書店

1991年に発行された『女高生・OL連続誘拐殺人事件』で、大衆の低俗な興味を満足させる記述により、社会的評価を著しく低下させられ、名誉や人格を傷つけられたとして、宮崎は著者の佐木隆三と出版した徳間書店に慰謝料500万円を請求する訴訟を起こす。名古屋地裁は名誉感情の侵害を認め、佐木や徳間書店に慰謝料支払いを命じる判決を出したが、双方がすぐに控訴。2000年に、佐木と徳間書店に75万円の慰謝料の支払いが命じられた。

佐木との裁判が決着した後、宮崎は東京拘置所に収容されている死刑囚を相手に訴訟中。

関連書籍

関連項目