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'''徳川義親 (経歴2 研究と冒険)'''では、[[徳川義親]]の経歴のうち、「研究と冒険」の節について述べる。脚注に記した参考文献については、[[徳川義親#参考文献]]を参照。
 
'''徳川義親 (経歴2 研究と冒険)'''では、[[徳川義親]]の経歴のうち、「研究と冒険」の節について述べる。脚注に記した参考文献については、[[徳川義親#参考文献]]を参照。
  
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1918年の[[米騒動]]の後、[[大川周明]]が設立した[[老壮会]]への参加を勧誘される<ref>中野(1977)pp.72-73</ref>。1920年に[[清水行之助]]が大川や[[北一輝]]の支援を受け[[右翼団体]]・[[大化会]]を結成した頃に、尾張徳川家の御相談人だった八代六郎[[海軍大将]]を通じて大川や清水と面識を得た<ref>小田部(1988)p.70、中野(1977)pp.72-73</ref>。
 
1918年の[[米騒動]]の後、[[大川周明]]が設立した[[老壮会]]への参加を勧誘される<ref>中野(1977)pp.72-73</ref>。1920年に[[清水行之助]]が大川や[[北一輝]]の支援を受け[[右翼団体]]・[[大化会]]を結成した頃に、尾張徳川家の御相談人だった八代六郎[[海軍大将]]を通じて大川や清水と面識を得た<ref>小田部(1988)p.70、中野(1977)pp.72-73</ref>。
  
また1918年の暮れ頃には、旧尾張藩出身の[[加藤勘十]]の訪問を受け、[[無産運動]]の話を聞いたとされる<ref>中野(1977)pp.67-68</ref>
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また1918年の暮れ頃には、旧尾張藩出身の[[加藤勘十]]の訪問を受け、[[無産運動]]の話を聞いたとされる<ref>中野(1977)pp.67-68</ref>
  
 
==== 博物館構想の発表 ====
 
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1921年11月に[[東京美術倶楽部]]・[[名古屋美術倶楽部]]で[[競売|入札]]を行い、尾張徳川家の什宝類のうち、品位鑑定で重複品・不要品と判断された10-15%を売却した<ref>香山(2015)pp.28,32-36</ref>。入札での売上総額約57万円は、博物館の設立準備金として運用された<ref>香山(2015)p.35</ref>。
 
1921年11月に[[東京美術倶楽部]]・[[名古屋美術倶楽部]]で[[競売|入札]]を行い、尾張徳川家の什宝類のうち、品位鑑定で重複品・不要品と判断された10-15%を売却した<ref>香山(2015)pp.28,32-36</ref>。入札での売上総額約57万円は、博物館の設立準備金として運用された<ref>香山(2015)p.35</ref>。
  
1920(大正9)年8月1日には、本籍を名古屋から東京へ移した<ref>香山(2015)p.31、香山(2014)p.3</ref>。
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1920年8月1日には、本籍を名古屋から東京へ移した<ref>香山(2015)p.31、香山(2014)p.3</ref>。
  
 
==== マレーでの虎狩り ====
 
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[[1921年]]5月から7月にかけ、吉井信照<ref>旧尾張藩出身で、マレーでゴム園を経営していた(中野,1977,p.75)。南洋及日本人社(1938)pp.618-624では、マレーの猛獣猟の権威として有名だったと紹介されており、談話が掲載されている。</ref>らとともに[[賀茂丸]]に乗船して[[マレー半島]]・[[ジャワ島]]を旅行<ref>小田部(1988)pp.32-33、中野(1977)pp.75-76および徳川(1926)</ref>。
 
[[1921年]]5月から7月にかけ、吉井信照<ref>旧尾張藩出身で、マレーでゴム園を経営していた(中野,1977,p.75)。南洋及日本人社(1938)pp.618-624では、マレーの猛獣猟の権威として有名だったと紹介されており、談話が掲載されている。</ref>らとともに[[賀茂丸]]に乗船して[[マレー半島]]・[[ジャワ島]]を旅行<ref>小田部(1988)pp.32-33、中野(1977)pp.75-76および徳川(1926)</ref>。
  
同年5月21日に[[シンガポール]]に到着した後、犀・象・野牛の狩猟許可を得るため[[ジョホール王国|ジョホール]]の[[スルターン|スルタン]]を訪問したが、不在だったため<ref>徳川(1926)pp.28-29,32-33</ref>、スルタンの帰還を待つ間にジャワ島を周遊<ref>徳川(1926)pp.35-36,57-62,77-95</ref>。翌6月上旬にマレー半島に戻り、[[スルタン・イブラヒム]]に謁見し、狩猟好きのスルタンに歓待されて共に[[ムアル]](Muar)で虎を狩り、許可を受けて[[ムアル川]]上流の[[ブキット・ケポン]](Bukit Kepong)周辺の[[ジャングル]]で象・野牛を狩った<ref>徳川(1963)pp.113-120、徳川(1926)pp.127-229、小田部(1988)p.33、中野(1977)p.76</ref>。スルタンと別れた後、ジョホールの皇太子に付き添われて、更にムアルで鹿狩り、[[コタ・ティンギ]](Kota Tinggi)で象狩り、[[センガラン]](Senggarang)で鰐狩りをした<ref>徳川,1926,pp.229-232,235-264,267-275)</ref>。
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同年5月21日に[[シンガポール]]に到着した後、犀・象・野牛の狩猟許可を得るため[[ジョホール王国|ジョホール]]の[[スルターン|スルタン]]を訪問したが、不在だったため<ref>徳川(1926)pp.28-29,32-33</ref>、スルタンの帰還を待つ間にジャワ島を周遊<ref>徳川(1926)pp.35-36,57-62,77-95</ref>。翌6月上旬にマレー半島に戻り、[[スルタン・イブラヒム]]に謁見し、狩猟好きのスルタンに歓待されて共に[[ムアル]]([[wiki:ms:Muar|Muar]])で虎を狩り、許可を受けて[[ムアル川]]上流の[[ブキット・ケポン]]([[wiki:ms:Bukit Kepong|Bukit Kepong]])周辺の[[ジャングル]]で象・野牛を狩った<ref>徳川(1963)pp.113-120、徳川(1926)pp.127-229、小田部(1988)p.33、中野(1977)p.76</ref>。スルタンと別れた後、ジョホールの皇太子に付き添われて、更にムアルで鹿狩り、[[コタ・ティンギ]]([[wiki:ms:Kota Tinggi|Kota Tinggi]])で象狩り、[[センガラン]]([[wiki:ms:Senggarang|Senggarang]])で鰐狩りをした<ref>徳川,1926,pp.229-232,235-264,267-275)</ref>。
  
またこの旅行中、[[バトゥ・パハ]](Batu Pahat)で[[石原産業|南洋鉱業公司]]が経営していた鉄鉱山を見学し、スルタンを介して[[石原広一郎]]兄弟と出会った<ref>小田部(1988)pp.33-34、中野(1977)p.76、徳川(1926)pp.235-267</ref>。
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またこの旅行中、[[バトゥ・パハ]]([[wiki:ms:Batu Pahat|Batu Pahat]])で[[石原産業|南洋鉱業公司]]が経営していた鉄鉱山を見学し、スルタンを介して[[石原広一郎]]兄弟と出会った<ref>小田部(1988)pp.33-34、中野(1977)p.76、徳川(1926)pp.235-267</ref>。
  
 
==== 欧州旅行 ====
 
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2017年9月23日 (土) 01:29時点における最新版

徳川義親 (経歴2 研究と冒険)では、徳川義親の経歴のうち、「研究と冒険」の節について述べる。脚注に記した参考文献については、徳川義親#参考文献を参照。

研究と冒険[編集]

明倫中学校問題[編集]

義親が大学を卒業した1914年頃から、尾張徳川家では、堀鉞之丞家令に迎え、拠点を名古屋から東京へ移すことを念頭に、名古屋にあった土地家屋や家財の処分、拠点・事業の整理・縮小が進められた[1]

大学卒業後、義親は東京・麻布富士見町の自邸内に研究室を設けて植物学の研究を継続していたが、1916年頃に本格的な研究所設立を構想、1916年12月に東京府荏原郡平塚村小山に用地を取得した[2]

1917年には、生物学研究所の新設等を理由として、尾張徳川家が運営に注力していた名古屋・大曽根明倫中学校同校附属博物館の愛知県への移管を決めた[3]。また同年以降、名古屋にあった大曽根邸以外の建物・所有地や、大曽根邸の「不要建物」を売却処分し、名古屋における拠点を大曽根邸の最小限の建物・所有地に集約した[4]

愛知県下の尾張徳川家の財産処分を大胆に進めた義親に対して、これに否定的な旧藩士との間には意見の対立もあり、1914年頃から新聞で義親との不和が報じられていた明倫中学校の校長・森本清蔵が1916年に辞任した後、明倫中学校の校長は長く空席となり[5]、「明倫中学校問題」は「新旧思想の衝突」と評された[6]。尾張徳川家の御相談人だった加藤高明八代六郎も、生物学研究所や林政史研究所(後述)の設立構想に反対したとされる[7]

生物学研究[編集]

1918年4月に徳川生物学研究所が開設され[8]、同研究所は多くの生物学者の研究を支援するとともに、義親自身も研究所でヒガンバナカンナの生殖の研究を行なった[9]

1920年には、学習院の植物科の教授を兼ねていた服部広太郎が欧州行きで不在にする間、代理で同科の講師を引き受けた[10]。このとき義親は、学習院の校風が成績本位に変ったと感じたといい、息子の義知と義龍を暁星中学へ入学させることにした[11]

1923年から生物学研究所の所長となった服部広太郎は皇太子時代からの昭和天皇の生物学の師でもあり、義親と昭和天皇の間には、義親が各地で収集した珍しい動植物を昭和天皇に献上するなど、学者としての交流もあった[12]

北海道での熊狩り[編集]

1918年以降、毎年3月頃に徳川開墾場のある北海道・八雲村を同地を訪れて熊狩りをした[13]

義親自身、「熊狩雑話」[14]、「熊狩記」[15]、「熊をたづねて」[16]などの体験記を執筆。また熊狩りに同行した『朝日新聞』の漫画家・岡本一平が新聞紙上で義親を漫画[17]の題材にしたことから、義親は「熊狩りの殿様」として知られるようになった[18]

この頃からアイヌの生活にも関心を持つようになり、1920年にたまたま八雲町を訪れたアイヌ語とアイヌ研究の権威・ジョン・バチェラー博士と意気投合し、後に博士の活動を支援することになった[19]。同年5月以降、毎年東京の松坂屋でアイヌ慈善バザーを主催し、徳川農場の作物などを販売した[20]

1919年7月末には、約1ヶ月間かけて北千島占守島へ船で旅行[21]柳田一郎、その紹介を受けた音楽教育家の鈴木鎮一、千島列島と縁の深い郡司成忠、その妹でピアニストの幸田延子ら14人が同行した[22]

大川周明、清水行之助との出会い[編集]

1918年の米騒動の後、大川周明が設立した老壮会への参加を勧誘される[23]。1920年に清水行之助が大川や北一輝の支援を受け右翼団体大化会を結成した頃に、尾張徳川家の御相談人だった八代六郎海軍大将を通じて大川や清水と面識を得た[24]

また1918年の暮れ頃には、旧尾張藩出身の加藤勘十の訪問を受け、無産運動の話を聞いたとされる[25]

博物館構想の発表[編集]

1920年1月12日、1910年から片桐助作が行なっていた尾張徳川家の什宝類の整理と品位鑑定が1915年までに完了したことを受けて[26]、新聞を通じて、大曽根邸の敷地に尾張徳川家の宝物を公開する博物館を設立する構想を発表した[27]

1921年11月に東京美術倶楽部名古屋美術倶楽部入札を行い、尾張徳川家の什宝類のうち、品位鑑定で重複品・不要品と判断された10-15%を売却した[28]。入札での売上総額約57万円は、博物館の設立準備金として運用された[29]

1920年8月1日には、本籍を名古屋から東京へ移した[30]

マレーでの虎狩り[編集]

1921年5月から7月にかけ、吉井信照[31]らとともに賀茂丸に乗船してマレー半島ジャワ島を旅行[32]

同年5月21日にシンガポールに到着した後、犀・象・野牛の狩猟許可を得るためジョホールスルタンを訪問したが、不在だったため[33]、スルタンの帰還を待つ間にジャワ島を周遊[34]。翌6月上旬にマレー半島に戻り、スルタン・イブラヒムに謁見し、狩猟好きのスルタンに歓待されて共にムアルMuar)で虎を狩り、許可を受けてムアル川上流のブキット・ケポンBukit Kepong)周辺のジャングルで象・野牛を狩った[35]。スルタンと別れた後、ジョホールの皇太子に付き添われて、更にムアルで鹿狩り、コタ・ティンギKota Tinggi)で象狩り、センガランSenggarang)で鰐狩りをした[36]

またこの旅行中、バトゥ・パハBatu Pahat)で南洋鉱業公司が経営していた鉄鉱山を見学し、スルタンを介して石原広一郎兄弟と出会った[37]

欧州旅行[編集]

1921年10月、箱根丸に乗船し、米子夫人と欧州旅行に出発[38]スペインイギリスドイツスイスベルギーオランダを周遊した[39]。義親は大学を卒業してから「洋行見学の志」を持ち続け、第一次世界大戦のために計画中止を余儀なくされていたが、このとき漸く実現した[40]。旅行中に英国で議会制度について見聞したことが、日本の貴族院の存在意義について考える上で参考になったという[41]

翌1922年11月に帰国[42]。帰国後、旅行中に船中で知り合った社会主義者石川三四郎を娘のフランス語の家庭教師として雇入れた[43]

また旅行中の1921年11月に宮内省主猟官に任命され[44]、帰国後、御料林の害獣駆除などを行なった[45]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. 香山(2015)p.27
  2. 香山(2015)p.31
  3. 香山(2015)pp.27-28,30-31。同年11月に交渉が妥結し、1919年4月に移管が実施された(同)。
  4. 香山(2015)pp.27-28,31-32
  5. 香山(2015)p.38
  6. 長江(1921)p.150
  7. 中野(1977)p.59
  8. 香山(2015)p.31、科学朝日(1991)p.195、小田部(1988)pp.14,28および徳川(1963)p.101。小田部(1988)pp.14,28および徳川(1963)p.101は、設立時期を1914年9月とし、徳川(1963)p.101では、1914年9月に武蔵小山に設立、初代所長は服部、としているが、前述のとおり小山の用地取得は1916年12月のことで、1914年9月は自邸内の植物学研究室の開設時期と思われる。
  9. 科学朝日(1991)pp.195-198
  10. 中野(1977)p.74、徳川(1963)p.112
  11. 中野,1977,pp.74-75
  12. 科学朝日(1991)p.196、小田部,1988,p.29
  13. 大石(1994a)p.177、科学朝日(1991)p.191、小田部(1988)p.31、徳川(1963)pp.110-112
  14. 1918年3月。徳川(1921)pp.1-28
  15. 1920年3月、徳川(1921)pp.113-203
  16. 1921年3月、徳川(1921)pp.205-258
  17. 岡本一平「殿様の熊狩り」『一平全集 第9巻』先進社、1929年、pp.46-52、NDLJP:1170441/36
  18. 大石(1994a)pp.178-179、中野(1977)p.75、徳川(1963)p.111。
  19. 大石(1994a)p.181
  20. 大石(1994a)p.181
  21. 「北千島紀行」(1919年10月、徳川,1921,pp.29-111)。徳川(1921)pp.30,33-34では、他人からは研究や探検に行ったと思われがちだったが、単なる避暑旅行だった、としている。
  22. 徳川(1921)p.31
  23. 中野(1977)pp.72-73
  24. 小田部(1988)p.70、中野(1977)pp.72-73
  25. 中野(1977)pp.67-68
  26. 香山(2014)pp.11-15。
  27. 香山(2015)pp.28,32-33。博物館開設の予算は50-100万円で、収蔵点数は約1万点、刀剣が多いと見積もられていた(香山,2015,p.32-33)。香山(2014)p.2では、1919年に美術館建設計画を発表した、としているが、採らない。
  28. 香山(2015)pp.28,32-36
  29. 香山(2015)p.35
  30. 香山(2015)p.31、香山(2014)p.3
  31. 旧尾張藩出身で、マレーでゴム園を経営していた(中野,1977,p.75)。南洋及日本人社(1938)pp.618-624では、マレーの猛獣猟の権威として有名だったと紹介されており、談話が掲載されている。
  32. 小田部(1988)pp.32-33、中野(1977)pp.75-76および徳川(1926)
  33. 徳川(1926)pp.28-29,32-33
  34. 徳川(1926)pp.35-36,57-62,77-95
  35. 徳川(1963)pp.113-120、徳川(1926)pp.127-229、小田部(1988)p.33、中野(1977)p.76
  36. 徳川,1926,pp.229-232,235-264,267-275)
  37. 小田部(1988)pp.33-34、中野(1977)p.76、徳川(1926)pp.235-267
  38. 中野(1977)p.76。同月13日に神戸から乗船し、45日間かけてフランス・マルセイユへ向かった(中野,1977,pp.76-77)。北白川宮成久王が同行した(中野,1977,p.76)。
  39. 中野(1977)p.84
  40. 長江(1921)p.150
  41. 徳川(1963)pp.120-121
  42. 中野(1977)p.84
  43. 中野(1977)pp.77-85
  44. 小田部,1988,p.18、中野,1977,p.85
  45. 小田部,1988,p.25。1925年9月に退官(小田部,1988,p.18、中野,1977,p.157)。