本因坊秀和

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本因坊 秀和(ほんいんぼう しゅうわ、1820年 -1873年7月2日)は江戸時代囲碁棋士。八段。囲碁四哲の一人とされる。

経歴[編集]

本姓は土屋、幼名は恒太郎。伊豆国下田の生まれ。13歳で本因坊丈和門下となる。15歳で三段、19歳で六段に進む。同年の道和とともに跡目候補として腕を競った。四段までは同時昇進し、そこで道和が眼病を患って脱落した。天保11年4月13日、丈策の跡目となる。21歳で七段に進む。この年から御城碁に出仕し、最後の御城碁まで29局を残した。 弘化4年、師家を相続し、十四世本因坊秀和となる。まもなく、隠居の本因坊丈和が死亡したため、同門と相談し上野車阪下の道場を引き払い、4世道策の拝領地である本所相生町に移転する。稽古は村瀬弥吉を塾頭として、富田秀六、小泉富士松、廣井金一郎、内垣末吉、高橋太三郎、三井熊三郎など十数名が腕を磨いていた。 同年11月には、安田秀策を跡目に定める。嘉永3年八段[1]

1859年(安政6年)、幕府に名人碁所就任願いを提出する。その頃、誰もが認める実力であったが、幕末の動乱期のため幕府は囲碁界を省みる余裕はなく「内憂外患の多忙」を理由に却下された。この時十三世井上因碩(松本錦四郎)が異義を唱えていたが、このための争碁も行われなかった。秀和は名人の実力がありながら名人になれなかった。

1862年(文久2年)、期待をかけていた跡目秀策がコレラに感染し死亡した。 新たな跡目として、村瀬弥吉を跡目にしようとしたが、丈和の未亡人が弥吉は放蕩にして品行がよくないと拒否したため、秀和は拒み切れなかった。後に秀甫これを聞いて、心安からず、遊歴を名目として外出が増えた。秀和はこれを察して、翌年、長子秀悦を跡目に指名する。御城碁はこの年の下打ちを最後として行われなくなり、棋士の対局機会も激減したため、秀和は研究会「三ノ日会」を組織するが、資金不足で3、4年で中断となる。 明治維新により家元制度は崩壊する。 明治2年(1869年)に東京府庁より、屋地引き替え、家禄減石の通達が出され、本所相生町の邸宅を借家にせざるを得なくなったが、直後にその借家から出火して邸宅が全焼、倉庫で雨露をしのぐなど苦しい生活に追い込まれた。本因坊家の家禄50石は13石に減らされていた。 明治4年(1871年)には家禄奉還となり、さらに経済的に困窮した。 明治6年(1873年)窮乏のうちに54歳で死去[1]。 秀悦が十五世本因坊となる。

幻庵との争碁[編集]

天保9年(1838年)、師の丈和が名人碁所を引退し、本因坊元丈の子の丈策が家督を継いだ。 天保11年(1840年)、井上幻庵因碩は名人碁所就任の願いを幕府に提出した。当主の本因坊丈策は跡目の秀和を対戦相手に選び、幻庵と秀和は寺社奉行より四番の争碁を命じられた。同年11月から行われた第1局で秀和は先で4目勝ちとし、幻庵は病もあって碁所願いを取り下げる。続いて天保13年にも幻庵と秀和は2度対戦するが、秀和は先番で連勝し、幻庵は名人碁所就任を断念した。

棋風[編集]

  • 初めて見る形でも筋や急所を的確に見つけ出し華麗に打ちまわす。
  • 軽いサバキを基調とし、形勢有利を認めると兵を引き寄せに入り収束させる。
  • 手厚い堅塁な碁と評される。

参考文献[編集]

  1. 1.0 1.1 安藤如意『坐隠談叢』,関西囲碁会,1910年