本多日生

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本多 日生(ほんだ にっしょう、生年不詳 - 1931年3月)は、顕本法華宗僧侶[1]

1896年(明治29)12月に開催された「統一団団結宣言大会」で、法華経による仏教の開顕統一論を展開[2]

1905年(明治38)に顕本法華宗の管長に当選し、爾来27年間、同宗の管長を務める[1]

1910年(明治43)、横田国臣大審院長の内命で、大逆事件の公判に陪席し、それ以降、「危険思想の防止匡正」に積極的な姿勢を示すようになる[1]

1918年(大正7)、労働争議小作争議の頻発を受けて、その抑制と労働者の「思想善導」を目的として自慶会を組織[1]

1928年10月に「思想善導」を目的として知法思国会を創設した[3]

日生は、日蓮の三大秘法(本尊、題目、戒壇)のうち、戒壇について、仏教への信仰・帰依の意識だけでなく、「国民道徳」や皇室の尊重、日本の「天職」や精神文化の保持などの思想を重視する主張をしており、皇室中心主義、国家至上主義的な思想を特色としていた[4]

付録

脚注

参考文献

  • 中濃 (1974a) 妹尾鉄太郎・稲垣真美(編)『妹尾義郎日記 第2巻』国書刊行会、1974年、JPNO 73020138、pp.439-450
  • 中濃 (1974b) 中濃教篤「解説」妹尾鉄太郎・稲垣真美(編)『妹尾義郎日記 第3巻』国書刊行会、1974年、NCID BN01797570、pp.497-511