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== 生涯 ==
 
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[[1889年]]広島県能美島生まれ。1900年(明治33年)広島県立第一中学校入学。5歳のとき祖父から碁を教わった。中学校に入学した頃2,3段のアマチュアと互角に戦えるようになっていた。[[1905年]](明治38年)の夏休みに[[神戸市|神戸]]で中根鳳次郎、阿部亀次郎に指導を受ける。[[1908年]](明治41年)9月、父が事業に失敗し、学費が続かず退学した。父と祖父に専門棋士になるように勧められ、[[1909年]](明治42年)上京した。この年、「少壮碁客血戦会」という碁会で、小林健太郎三段に先着で勝ち、以後50局対局し、勝率80%をあげる。明治42年、[[鈴木為次郎]]三段との試験碁に先相先で4勝2敗とし、飛付三段を許される。
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[[1889年]]広島県能美島生まれ。5歳のとき祖父から碁を教わった。1900年(明治33年)広島県立第一中学校(旧制)入学。中学校に入学した頃、2,3段のアマチュアと互角に戦えるようになっていた。[[1905年]](明治38年)の夏休みに[[神戸市|神戸]]で中根鳳次郎、阿部亀次郎に指導を受ける。[[1908年]](明治41年)9月、父が事業に失敗し、学費が続かず退学した。父と祖父に専門棋士になることを勧められ、[[1909年]](明治42年)上京した。この年、「少壮碁客血戦会」碁会で、小林健太郎三段に先着で勝ち、以後50局対局し、勝率80%をあげる。同年、[[鈴木為次郎]]三段との試験碁に先相先で4勝2敗とし、飛付三段を許され、[[方円社]]に入門する。
  
[[1921年]](大正10年)六段。1922年(大正11年)[[雁金準一]]、[[鈴木為次郎]]、[[高部道平]]と共に[[裨聖会]]を作る。1924年(大正13年)、日本棋院の創立に参画する。推薦により七段に昇進。1927年からの[[大手合]]東西対抗戦では鈴木為次郎とともに両軍の主将として活躍した。1928年(昭和3年)[[高橋重行]]との対局で万年コウ事件が起きる。勝敗が一時預かりとなるなど紛糾した。1942年(昭和17年)[[鈴木為次郎]]、[[加藤信]]とともに八段に推挙される。1944年には準名人戦出場。
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[[1921年]](大正10年)六段。1922年(大正11年)[[雁金準一]]、[[鈴木為次郎]]、[[高部道平]]と共に[[裨聖会]]を作る。1924年(大正13年)、日本棋院の創立に参画する。推薦により七段に昇進。1927年からの[[大手合]]東西対抗戦では[[鈴木為次郎]]とともに両軍の主将として活躍した。1928年(昭和3年)[[高橋重行]]との対局で万年コウ事件が起きる。勝敗が一時預かりとなるなど紛糾した。1942年(昭和17年)[[鈴木為次郎]]、[[加藤信]]とともに八段に推挙される。1944年には準名人戦出場。
  
[[1945年]](昭和20年)、[[太平洋戦争]]末期の[[東京大空襲]]により日本棋院会館が焼失。[[1946年]](昭和21年)、日本棋院初代理事長に就任。[[1948年]](昭和23年)に日本棋院会館([[港区 (東京都)|港区]]芝[[高輪]])を開館。
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[[1945年]](昭和20年)、[[太平洋戦争]]末期の[[東京大空襲]]により日本棋院会館が焼失。[[1946年]](昭和21年)、日本棋院理事長(初代)に就任する。[[1948年]](昭和23年)に再建後の日本棋院会館([[港区 (東京都)|港区]]芝[[高輪]])を開館させる。
1951年(昭和26年『「御城碁譜』を出版。1955年(昭和30年)引退。名誉九段を受ける。1958年(昭和33年)紫綬褒章受章。1959年(昭和34年)『明治碁譜』を出版。1966年(昭和41年)勲二等瑞宝章受賞。1972年(昭和47年)7月27日、老醜を厭い自決。
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1951年(昭和26年『「御城碁譜』を出版。1955年(昭和30年)引退。名誉九段を受ける。1958年(昭和33年)[[紫綬褒章]]受章。1959年(昭和34年)『明治碁譜』を出版。1966年(昭和41年)[[勲二等瑞宝章]]受賞。1972年(昭和47年)7月27日、老醜を厭い自決。
 
2009年[[囲碁殿堂]]入り。
 
2009年[[囲碁殿堂]]入り。
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「瀬越囲碁講座」等100冊以上の著作を著し、囲碁の普及にあたった。
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鈴木為次郎、加藤信とともに棋界の三長老と言われた。
  
 
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[[1928年]]の[[呉清源]]の来日に尽力し、瀬越憲作門下とした。
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2017年10月29日 (日) 00:12時点における版

瀬越 憲作(せごえ けんさく、1889年5月22日 - 1972年7月27日)は、日本の囲碁棋士。名誉九段。勲二等瑞宝章。囲碁の海外普及に尽力した。


生涯

1889年広島県能美島生まれ。5歳のとき祖父から碁を教わった。1900年(明治33年)広島県立第一中学校(旧制)入学。中学校に入学した頃、2,3段のアマチュアと互角に戦えるようになっていた。1905年(明治38年)の夏休みに神戸で中根鳳次郎、阿部亀次郎に指導を受ける。1908年(明治41年)9月、父が事業に失敗し、学費が続かず退学した。父と祖父に専門棋士になることを勧められ、1909年(明治42年)上京した。この年、「少壮碁客血戦会」碁会で、小林健太郎三段に先着で勝ち、以後50局対局し、勝率80%をあげる。同年、鈴木為次郎三段との試験碁に先相先で4勝2敗とし、飛付三段を許され、方円社に入門する。

1921年(大正10年)六段。1922年(大正11年)雁金準一鈴木為次郎高部道平と共に裨聖会を作る。1924年(大正13年)、日本棋院の創立に参画する。推薦により七段に昇進。1927年からの大手合東西対抗戦では鈴木為次郎とともに両軍の主将として活躍した。1928年(昭和3年)高橋重行との対局で万年コウ事件が起きる。勝敗が一時預かりとなるなど紛糾した。1942年(昭和17年)鈴木為次郎加藤信とともに八段に推挙される。1944年には準名人戦出場。

1945年(昭和20年)、太平洋戦争末期の東京大空襲により日本棋院会館が焼失。1946年(昭和21年)、日本棋院理事長(初代)に就任する。1948年(昭和23年)に再建後の日本棋院会館(港区高輪)を開館させる。 1951年(昭和26年『「御城碁譜』を出版。1955年(昭和30年)引退。名誉九段を受ける。1958年(昭和33年)紫綬褒章受章。1959年(昭和34年)『明治碁譜』を出版。1966年(昭和41年)勲二等瑞宝章受賞。1972年(昭和47年)7月27日、老醜を厭い自決。 2009年囲碁殿堂入り。

人物

「瀬越囲碁講座」等100冊以上の著作を著し、囲碁の普及にあたった。

鈴木為次郎、加藤信とともに棋界の三長老と言われた。

呉清源

1928年呉清源の来日に尽力し、来日後は瀬越憲作門下とした。

参考文献