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'''瓜田 純士'''(うりた じゅんし、[[1979年]][[12月4日]] - )は、[[日本]]の[[俳優]]・[[作家]]・[[格闘家]]・[[コラムニスト]]・[[犯罪者]]である。
 
'''瓜田 純士'''(うりた じゅんし、[[1979年]][[12月4日]] - )は、[[日本]]の[[俳優]]・[[作家]]・[[格闘家]]・[[コラムニスト]]・[[犯罪者]]である。
  
 
== 人物 ==
 
== 人物 ==
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1979年新宿・歌舞伎町生まれ。父親は伝説の暴走族ブラックエンペラーの二代目総会長(現役当時は二代目を襲名、関東連合創始者)。
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1979年新宿・歌舞伎町生まれ。父親は暴走族ブラックエンペラーの二代目総会長(現役当時は二代目を襲名、関東連合創始者)。
  
 
16歳で新宿・中野・杉並の仲間達数名と東京制覇し、新宿を中心に都内を席巻したアウトローのカリスマ。劇画にもなった伝説の多国籍バウンサー組織「供攻社」を設立。最盛期は60名を超える在日韓国人、中国人、日系ブラジル人、亜系黒人などが揃っていた。獄中体験を経て、現在は映画、音楽、講演、格闘技、ブログを通じて薬物と孤独の恐ろしさを世に訴える活動をしている。
 
16歳で新宿・中野・杉並の仲間達数名と東京制覇し、新宿を中心に都内を席巻したアウトローのカリスマ。劇画にもなった伝説の多国籍バウンサー組織「供攻社」を設立。最盛期は60名を超える在日韓国人、中国人、日系ブラジル人、亜系黒人などが揃っていた。獄中体験を経て、現在は映画、音楽、講演、格闘技、ブログを通じて薬物と孤独の恐ろしさを世に訴える活動をしている。
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暴力が人を従わせる絶対的な力であることを、男は、10代前半で学んだ。30歳を過ぎて、男は、言葉が人を動かす力になりうることを信じている。
 
暴力が人を従わせる絶対的な力であることを、男は、10代前半で学んだ。30歳を過ぎて、男は、言葉が人を動かす力になりうることを信じている。
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== 元アウトローのカリスマ瓜田純士がパニック障害と闘った日々(2015年) ==
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“元アウトローのカリスマ”こと瓜田純士(35)が2015年秋、人知れず「[[パニック障害]]」に苦しんでいた。外出しようとすると動悸が高まり、体も硬直してしまうパニック障害。
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ある日突然、なんの前触れもなく、この症状に襲われるようになったそうだ。以来、何週間も自宅に引きこもり、「このまま一生治らないんじゃないか」と悲嘆に暮れる日々を送ってきたが、最近になってようやく回復の兆しが見えてきたという。リハビリを兼ねて街へ出た瓜田に、話を聞いた。
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この秋、文庫版『遺書』(竹書房文庫)と、新著『國殺』(竹書房)を相次いで出版した瓜田。さぞかし絶好調な毎日を送っているのかと思いきや、不調のドン底でもがき苦しんでいた。
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「歩いてここまで遠出したのは、冗談抜きで3週間ぶりです」。自宅から300メートルほどしか離れていない新宿二丁目の街角に立ち、感慨深げにそう語る瓜田。「最寄りのコンビニに行くのも怖かった僕が、これだけの人混みの中にいても大丈夫ってことは、だいぶ回復した証拠。数週間前の僕は、一生外には出られないんじゃないかという絶望の真っ只中にいましたから」。
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パニック障害を克服しつつある瓜田が、“暗黒の日々”を振り返る。
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――体調の異変を最初に感じたのは、いつでしょう?
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瓜田 10月初旬ごろです。嫁と二人で家の近所を歩いているときに突然、新宿通りまで出るのが怖くなり、引き返したのが最初。その後も外出しようとする度に、動悸が高まるとともに冷や汗が溢れ出て、空間認識能力が狂うというか、空間に圧迫されるような感覚に陥り、体が硬直してしまう。足掻こうとしても、脳がストップをかけているのか、体が動かないんですよ。
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――それがパニック障害であるということは、医師の診断でわかったんですか?
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瓜田 パニック障害の経験者である嫁から、たぶんそうだと教わりました。自分でもインターネットなどで調べたところ、症状がことごとく一致したので、あぁそうなのかと。なんの前触れもなく、いきなり来たから最初は戸惑いましたし、ものすごく不安になりました。
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――原因にお心当たりは?
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瓜田 いま冷静に分析すると、おそらくそもそものスタートは、秋の花粉症がツラくて眠れない日々が4日ほど続いたことだと思います。鍼(はり)の先生から聞いたんですけど、睡眠不足が何日も続くと、脳内の神経伝達物質のバランスが崩れて、パニック障害になりやすいそうです。眠れないとストレスになりますし、肩や首が凝って、脳への血の巡りも悪くなりますから。
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――心療内科には通ったんですか?
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瓜田 いや、心療内科は治療が長引く予感がしたので避けました。これまでの数多くの通院経験から、「今回はきっと自律神経に関係のある症状。神経を刺激するものといえば鍼」と判断し、鍼に通い始めた成果もあって、こうして短期間で表に出て、酒を飲み、人と話せるまでに回復しました。「眠れないストレスがそうさせた」という答えが見えてきたら、予期不安に襲われても、この闇はいつか抜けるものだと思えて、乗り切れることができるようになった。原因がわからないうちは本当にツラかったです。外に出るなんて、裸で戦場に行くような恐怖でした。
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――パニック障害は、家にいる間も苦しいんですか?
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瓜田 家では多少は安らぐんですけど、それでも症状が重い時期は、嫁に対する言動が荒くなってしまう。わかってほしい焦りから、ついつい当たってしまうんです。あと、ずっと家にいるから思考がだんだんネガティブになり、食も細くなり、日ごとにやつれていく時期もありました。最大の理解者である嫁がいつも寄り添ってくれて、食事を世話してくれて、いろんな知恵を授けてくれたおかげで脱出の手がかりをつかめましたが、もし一人暮らしだったらと思うとゾッとしますね。
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――快方に向かっていった過程を教えてください。
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瓜田 先ほど言ったとおり鍼治療は効果的でしたが、それは気休め程度のもの。僕の場合、パニック障害を論理的に把握することがかなり有効でした。まず、「パニック障害で死ぬことはない」ということを知り、気持ちがだいぶラクになった。次に、原因はなんなのか? その原因を最短で解消するにはどうすればいいのか? という仕組みがわかるにつれ、出口が見えてきた。そして何より僕を勇気づけてくれたのは、治し方うんぬんよりも、「実際に治った人が何人もいる」という具体的な情報でした。何人もの著名な方々がパニック障害に苦しんだ過去を持ちながらも、いま現在、表舞台で活躍されている事実を知り、自分もいつか治るはずだという自信が少しずつ湧いてきましたね。
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――花粉症による不眠のストレスがパニック障害のきっかけになったとの自己分析ですが、出版に向けてのプレッシャーもまた、症状を悪化させる一因となったのでは?
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瓜田 それも大いにあります。文章を書いたはいいけど、ちゃんとカタチになるのか? ちゃんと宣伝はしてもらえるのか? そうした思いを出版社にぶつけたほうがいいのか? いや、言うと信頼関係が壊れるんじゃないか?……などの不安や葛藤がストレスになり、心身の調子がさらに悪くなっていった部分もあります。10月下旬に竹書房から「『國殺』の見本が刷り上がった」との連絡が来たんですが、そのときもコンディションは最悪で、外へ出るのも人と会うのも怖かったから、取りに行くべきかどうか迷いました。
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――結局どうしたのでしょう?
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瓜田 人が大勢いる電車に乗るのは考えられなかったので、嫁に同伴してもらい、タクシーを拾って竹書房に向かったんですが、車のドアが閉まった瞬間、圧迫感で発作が起きて、手もガクガク震えだした。信号で車が止まる度に息が苦しくなるんですけど、途中下車したらもっと苦しくなるのは明らかなので、嫁に励まされながら、なんとか飯田橋までたどり着きました。タクシーを降りてからもツラくてツラくて、「もうダメだ! 帰ろう!」と駄々をこねましたが、嫁に説得されながらどうにか竹書房のビルに入って、本を受け取りました。
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――そのときの心境は?
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瓜田 本を受け取った瞬間に、ウソみたく元気になりました。渡された本を見てホッと安心するとともに、俺はまだ終わっていない! っていう自信がふつふつと湧いてきた。同伴してくれた嫁が僕の作品を手に取り、「純士、よう頑張ったな。これ、ホンマにすごいことやで」と涙を流しながら言ってくれたときはホント、こいつと一緒になってよかった、この人を幸せにしないといけないな、と思いました。嫁は僕が絶不調のときに「純士が仮に一生病気でも、一生付き合う」と言ってくれた。ありがとうの言葉しかないです。
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――その日の帰り道は?
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瓜田 帰りのタクシーではパニくることなく、平常心を維持できた。てことは結局、出版への重圧もパニック障害の一因だったということですが、それがわかったことでさらに気がラクになりました。以来、物事をプラスに考えられるようになって、発作が減ったり、外出頻度が上がったり、徐々に快方に向かいつつあります。10を全快とするなら、いまは7ぐらいでしょうか。
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――大変なご苦労があったんですね。
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瓜田 今回の闘病で気づいたのは、人間は日々、無意識下でいろいろなストレスを感じながら生きているということです。例えば、テンションが低いときに誰かから電話がかかってきて、本当は出たくないのに元気なふりをして出たりすることって、誰にでもあると思うんですが、それも小さなストレスなんです。あるいは、人混みの中を歩いているときに、誰かとぶつかりそうになって避ける。それも小さなストレス。そうした微量なストレスが積み重なり、何かのきっかけではじけてしまうと、僕みたいにパニック障害になってしまう。
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――瓜田さんが人混みを歩くと、周囲がストレスを感じて避けるとの噂も……。
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瓜田 確かに僕が胸を張って人混みの中を歩くと、みんなが勝手に避けてくれます(笑)。でもその歩き方って、実はものすごくパワーを使っていたんだなって思います。気張っているから肩や首が凝るんですよ。
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――「新宿の瓜田」というプライドゆえの気張りですか?
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瓜田 少年時代に不良の世界で、弱いのに新宿のアタマになってしまった。以来、「街は虚勢を張るところ」「街はライブの自分を見せるステージ」っていう感覚で生きてきましたから、弱った自分を家族以外には見せたくなくて、このところずっと引きこもっていたという部分もあります。
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――アウトローの世界で名を売った男ならではの悩みですね。
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瓜田 「アウトローのカリスマ」なんて呼ばれたこともありますけど、それは分不相応ですよ。いまの僕は、嫁にとってのカリスマでありたいだけ。他の誰にどう思われても関係ない。嫁に「この人を信じてついてきてよかった」って思われたいだけなんです。裏を返せば、そういう絆の強まりを確認できただけでも、今回パニック障害になってよかった。無駄ではなかった。プラスになった。あれだけツラい日々を送ったんだから、そうでも思わないと、貧乏性の僕としては割に合わないですよ(笑)。
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――パニック障害になったことで得た教訓は?
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瓜田 例えば格闘技をやっている後輩たちにも、やがて年齢的な限界がくるでしょう。体が動かなくなったとき、その先の人生は果たしてどうなるのか? ってことを考えると、彼らは10年後がめちゃくちゃ怖いと思うんです。でもね、10年後を怖がって今日萎縮するより、明日を怖がって今日動くような生活をしないとダメ。いきなりのことが起きたときはマジで、10年後のことなんて考えられもしないですよ。僕はパニック障害になって一時期、何もかもがどうでもよくなっちゃいましたもん。「明日をビビって今日動けないぐらいだったら、明日が来ないと思って今日動いたほうがいい」。それが今回得た教訓です。
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――いい言葉ですね。
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瓜田 だから僕はいま、自分の本がとにかく売れてほしいんです。名前を売りたいからでも、派手に遊びたいからでもない。シンプルにカネがほしいんです。何かあったときのためにいまからカネをためておかないと危ない、っていう考えです。僕や嫁が医者の世話になるかもしれない老後のことも考えて、いまから貯金をしておきたいんですよ。
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――瓜田さんの発言とは思えませんね。
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瓜田 ぶっちゃけこのトシになると、もうムチャはできないですよ。保険をかけちゃう。若いときは考えもしなかったけど、健康あっての幸せです。認めますよ。「瓜田純士は丸くなった」と。尖ったふりはしたくないですもん。痛いものを痛いと言えない世界、怖いものを怖いと言えない世界にいたから、丸くなったと素直に言えるいまはとてもラクです。
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――さきほど「弱いのに新宿のアタマになってしまった」とおっしゃいましたが、弱さを自覚したのはいつですか?
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瓜田 この際だからはっきり言いますが、僕はガキのころからタイマンが苦手だったんです。なんでかというとガキのケンカなんてジャンケンと一緒で、どれだけコンディションが良くても気持ちで勝っていても、負けるときは負けるんですよ。僕は背が高かったけど、タックルを食らって倒されたりして、「あれ? なんでこんなチビに?」っていう相手にも、けっこう負けたり苦戦したりした。タイマンは不良の見せ場で、ギャラリーが見たいのはきれいに勝つシーン。でも、なかなかきれいにはいかず、たいていゴチャゴチャになるんです。で、ゼェゼェ息切れしている間に先輩の止めが入り、「純士が押されていたな」と言われたり、仲間からも「瓜田はたいしたことない」と思われたりしちゃう。「あれ? おかしいな? もういっぺんやらせてくれ」と言っても、ガキのケンカに2ラウンドはないんです。ある時期そんな感じで負けが続いてしまって、もうタイマンを張るのはイヤだと思い、絶対的に自分が一番ってことを見せつけるケンカのやり方を覚えちゃったんですよ。
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――そのやり方とは?
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瓜田 要は「場面」ですよ。手下を使ってめちゃくちゃ怖い思いをさせてから、泣きながらブルブル震えているヤツのもとに、リーダーの僕があとから現れて、威圧感をたっぷり漂わせながら「てめえこの野郎」と言葉でさんざんいたぶるわけです。相手は萎縮して謝るしかない。腕力ではなく、空気感で相手を屈服させるんです。いちいちタイマンを張っていたら負けるリスクがあるから、そういう手をよく使いました。ズルしてでも勝ちにこだわったんです。
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――本職顔負けのやり方ですね。
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瓜田 実際、ナメられたくないという思いから本職になった時期もありました。でも、タイマンが苦手というコンプレックスを抱えたまま大人になったら未来がない。そう思って出たのが、第一回のジ・アウトサイダー(編注/リングス・前田日明主催の不良更生を目的とする格闘技大会)だったんです。あれは、大勢の観客の前で行う正真正銘のタイマンでしたから、だいぶ自分に打ち勝つことができた。やっぱ人間、どこかで一度は戦わないとダメですね。
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――そんな出場動機だったとは知りませんでした。
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瓜田 調子に乗って出た第二回大会では北海道の青年にボコボコにやられちゃいましたが(笑)、勝ち戦しか知らないヤツはどっかで死んだりしますから、あれもいいクスリです。自分の力を過信しちゃダメ。運だっていつかは尽きます。僕は痛い思いや苦しい思いをいっぱいしてきたから、運がないのかなって思うこともあるけど、その分、嫁との幸せを手に入れることができたからオールOKですね。
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苦難を乗り越え、虚飾を脱ぎ捨て、真実の愛にたどり着いた瓜田。街はハロウィンに沸いていたが、午後10時になると「嫁に心配をかけたくないので」と言い残し、家路についた。
  
 
== 書籍等 ==
 
== 書籍等 ==

2020年1月13日 (月) 00:59時点における最新版

瓜田 純士

瓜田 純士(うりた じゅんし、1979年12月4日 - )は、日本俳優作家格闘家コラムニスト犯罪者である。

人物[編集]

瓜田 純士
瓜田 純士

1979年新宿・歌舞伎町生まれ。父親は暴走族ブラックエンペラーの二代目総会長(現役当時は二代目を襲名、関東連合創始者)。

16歳で新宿・中野・杉並の仲間達数名と東京制覇し、新宿を中心に都内を席巻したアウトローのカリスマ。劇画にもなった伝説の多国籍バウンサー組織「供攻社」を設立。最盛期は60名を超える在日韓国人、中国人、日系ブラジル人、亜系黒人などが揃っていた。獄中体験を経て、現在は映画、音楽、講演、格闘技、ブログを通じて薬物と孤独の恐ろしさを世に訴える活動をしている。

来歴[編集]

1979年、東京都新宿区新宿に生まれる。暴走族ブラックエンペラーの2代目総長を父親に持ち、16歳で暴力団へ加入した。

2008年
3月30日、前田日明がプロデュースした格闘技大会「THE OUTSIDER」のセミファイナルに出場。aym-jetと対戦し、グラウンド状態での踵落しを繰り出し、TKO勝ち。
7月19日、「THE OUTSIDER 第弐戦」のセミファイナルに出場。大谷匡弘と対戦し、1R28秒レフェリーストップで敗北。
9月12日、作家デビュー作「ドブネズミのバラード」(太田出版)発売。
12月26日、地下格闘技イベント「喧王」Zepp Osakaに参戦。招待戦スペシャルワンマッチでチョコボール金山と対戦し、判定により敗北。
2009年
1月18日、国立代々木第2体育館で開催されたムエタイ興行「ムエローク Japan 2009 〜最大最強のムエタイ祭り〜」で元ルンピニー・スタジアム認定ライト級王者チャンデー・ソーパランタレーと2分2Rのエキシビションマッチを行った。
4月10日、「喧王」2戦目、ジャックナイフ林にKO負け。
4月12日、「新宿アースダム 〜KING OF TATTOO LIVE〜」に参加。
4月25日、『ブルーベリー 〜僕の詩 母の歌〜』(GPミュージアム)が全国発売。
8月、芸能プロダクション「ニートロウ」所属となった。
2010年
9月11日、自身の行った暴力行為についてブログに記述した。
2011年
8月25日、タトゥーナビにて連載"瓜田純士の僕の心は顔面タトゥー"をスタート。
2012年
3月27日、以前バンド仲間だったSophia(モデル・タレントJOYの姉)を脅迫したとして、警視庁田無警察署に逮捕された。

JOYの姉を恐喝して逮捕(2012年3月)[編集]

タレント・JOYさんの姉であるモデルの知人女性(28)に対し、「芸能界から消えろ、弟がどうなっても知らないぞ」などと脅したとして、警視庁は、脅迫の疑いで格闘家で俳優・瓜田純士容疑者(32)を逮捕した。

警視庁によると、瓜田容疑者は先月、東京・新宿区の自宅で、女性に対し、「家族や事務所ごと潰してやる」などと脅した疑いが持たれている。また、「芸能界から消えろ、弟がどうなっても知らないぞ」と大声で詰め寄ったという。警視庁は2人の間で一緒に音楽活動をする話が持ち上がっていたものの、うまくいかず、トラブルになったとみている。

瓜田容疑者は警視庁の調べに対し、「酔っていて覚えていない」と容疑を否認している。

六本木撲殺事件に対して・瓜田純士[編集]

瓜田 純士

小さな頃、毎日遊んでいた先輩達。大好きだった。15の頃、よく焼きをもらった。

今、マスコミやニュースは連日、関東連合、関東連合と報道しているが、前もって言っておくが、俺は一連の事件とは一切関係ない。

あくまでも擁護する立場でもない。ただ、杉並の先輩方の直下として、一つ声を大にして云いたい事がある。アウトローとして、後輩として。

一枚岩と化し、都内を席巻した永福町二十二代目。常にカリスマ的リーダーを中心に血生臭い抗争に、『頼れるのは仲間のみ』と、日本にその名を轟かした。俺もいつも先輩方に教育されて育った。

だけにこれだけは書きたい。

六本木事件で名前が報道された国田正春容疑者、小池幹士容疑者。

いや、チャッピー君に幹二君。己の保身の為にひよって12月に誰よりも早く出頭し、関係ない振りをして仲間にすべてをなすりつけてるみたいですね。

出頭した後輩逹はなにひとつ喋らず頑張っている中、雑誌やニュースなんかの報道では、数名の供述ってなっているがチンコロしているのはあんたら2名だけですよ。サツに魂売ったんですか?それとも仲間を売れば安くなるようにしてくれってサツと取引でもしてるんですかね?

国田正春君、佐藤幹二君 いや、小池幹二君て名前になってましたね。

先輩達の供述だけしかないんですよ、世の中に出回ってるのは。関東連合の後輩誰1人としてうたう様なダサいマネしてないですよ。あんたら2名だけの保身の為の供述で仲間だと信じていた友人や後輩が苦しむハメになっているんですよ。

国田正春君。戸籍まで小池に変えて、そんなに自分がかわいいですか。仲間や後輩にすべてを被せてまで助かりたいですか?佐藤幹二君。

俺たちも周りも腐った薄い友情関係に外道極まりなく鼻で皆笑ってますよ。夏に海で随分大層な口聞いてくれましたね。裏切りの二人に関してはシャバで逢っても軽蔑しながらシカトさせて貰いますよ。マジで。

俺は後輩としてそう教育されてきましたから。用意周到に仲間を犠牲にする算段まで立てて出頭し、週刊誌に写真売ってまで自分だけは助かろうとしている様、哀れですよ、佐藤幹二君。

仲間を何だと思ってるんですか?国田正春君。

誰とは言わんが、それに加担しマスコミに仲間の写真を提供し、陥れようとしてるクズ野郎幾らか貰って幸せか?もうすべてめくれてんだよ。まだまだ帰ってくる者がいる中、まだまだ塀にいる先輩に、どの面下げて詫びるつもりですか?

関東連合は壊滅しないし、強豪がまだまだ後を絶たなく、2名を抜かせば最強の砦だろう。しかしあんたら2人にはガッカリしました。

国田正春君、佐藤幹二君。恥ずかしい先輩二人へ。

アウトロー瓜田純士

関東連合が唯一制圧できなかった兄弟と、苦悩する親友の物語。瓜田純士『遺書』[編集]

瓜田 純士

『遺書 関東連合崩壊の真実と、ある兄弟の絆』瓜田純士/太田出版

2010年頃から表社会でもメジャーになった関東連合。2014年4月、彼らを10代からよく知る人物によるノンフィクションが刊行された。「THE OUTSIDER」にも出場し、JOYの姉を脅迫したとして逮捕されたこともある有名アウトロー、瓜田純士。

彼から見た「六本木フラワー事件」の原因は「地元の先輩たち」と「親友」との抗争にある。関東連合が対立しているこの兄弟についての情報は、現時点で最も本書が詳しい。前半はリアル不良漫画の中学時代。抗争が激化する後半の展開は一転して息苦しい。葛藤と後悔が滲み出ている。なお印税は全額、犯罪被害者遺族支援のために寄付するとのこと。 暴力が人を従わせる絶対的な力であることを、男は、10代で学んだ。

男には、チーマーとの喧嘩のなかで仲間となった「親友」がいた。中学校のときに世話になった「地元の先輩たち」は、次第に闇社会で影響力を持つようになった。17歳のとき、男はヤクザになった。刑務所にも入れられた。シャバに戻ると、「地元の先輩たち」は「親友」を本格的に潰そうとしていた。結果、無関係の男性が殺されてしまった。

男は後悔した。こんなことになる前に、両者を繋ぐことができたかもしれない、と。今、自分が知るすべてを明かすことで、憎しみの連鎖を終わらせたい。男は一冊の本を書いた。

それが『遺書 関東連合崩壊の真実と、ある兄弟の絆』である。著者の瓜田純士は、傷害、脅迫など、数々の事件に関わってきたアウトロー。2013年10月にも路上で刺されており、重傷を負っている。

2012年9月、東京・六本木のクラブ「フラワー」。「関東連合」の関係者らが、飲食を経営する一般男性を「人違い」で襲撃し、金属バットなどで撲殺するという事件が起きた。2014年4月までに、本件に関わったとされる15名が逮捕。2013年の一審判決で、うち9名が傷害致死などの罪で懲役8年から15年と告げられた。(4月22日の控訴審判決で3名の被告にそれぞれ2年の減軽)組織のトップであり事件の首謀格とされる見立真一は、現在も海外に潜伏中と見られている。

2010年市川海老蔵暴行事件で表社会での知名度が飛躍的に上昇した「関東連合」。その前後からマスメディアでもさかんに取り上げられるようになり、週刊誌や雑誌などで芸能人との「アブナい」関係が「売れるネタ」として扱われている。呼応するようにネット上では、「2ちゃんねる」の「アウトロー板」や有志によるwiki形式のサイトで、関連人物や事件の情報がまことしやかに語られてきた。

また、作家の溝口敦が『ヤクザ崩壊 侵食される六代目山口組』(2011年)のなかで「堅気とヤクザの中間的な存在」として「半グレ」という言葉を生み出してから、「関東連合」はその典型例とされることが多かった。

しかし、一部マスコミとネット、そしてときには警察組織までもが互いを情報ソースとして活用したことで、「関東連合」(とされるもの)のイメージは虚実とり混ぜて肥大化していったという側面がある。結局のところ、正体は長らく謎に包まれていたと言ってよい。

そんな状況のなか2013年7月に刊行されたのが『いびつな絆 関東連合の真実』であった。著者の工藤明男(筆名)は「関東連合」のOBであり、元幹部というふれこみ。まさに当事者しか知りえないと思われる内容。筆致は告発の緊張感に溢れ、正史としての説得力に満ちている。ただし、この本がどれだけ「真実」を公にする目的で発表されたにせよ、工藤は集団内での反見立派(=反主流派)の人物。裁判を控えていた一部被告の支援者だということも忘れてはならない。一定の留意が必要だ。

同年9月には「実話ナックルズ」の編集長を務めていた久田将義による『関東連合 六本木アウトローの正体』が刊行された。これは「関東連合」が成立、発展した90年代から2000年代の空気をまとめた貴重な資料ではあるが、情報通の久田による取材をもってしても、かえって実態の見えづらさが強調されるに留まっている。

なお、起訴された元メンバーのひとり、石元太一の著書『不良禄 関東連合元リーダーの告白』(2012年)は、残酷な「ヤキ」や金属バットによる襲撃作法などから暴力性や狂気こそ伝わってくるが、タレントとしても活動していた石元のプロモーション的要素が強いように感じられる。

つまるところ、利害関係が薄く、かつ「関東連合」に近しい第三者による書籍の登場が待たれていたというのが、その「真実」を取り巻く状況であった。

もともと関東連合とは、70年代から存在する関東の暴走族が集結してできたグループである。だが近年話題となっているのは、90年代に見立らが復活させた暴走族「永福町22代目ブラックエンペラー」のOBを中心に指すという。『いびつな絆』や『関東連合』にも共通する認識だ。

「フラワー事件」の真の標的は、これまでほとんど報じられてこなかった。その人物こそ、本書で語られる「木村兄弟」の弟・孔次郎である。「関東連合」と木村兄弟は長きに渡って、幾人もの死傷者を出しながら、抗争を繰り広げてきた。彼らは警戒心が強く、居場所や連絡先を徹底的に隠している。連絡がとれるのは、兄弟間を除けば瓜田だけであるという。

「関東連合」という名前は聞いたことがあっても、木村兄弟については初耳の人も多いだろう。兄弟に関しては『いびつな絆』でも言及されているが、なぜ対立するに至ったのかまでは触れられていない。すべては「ボタンのかけ違い」と瓜田は語る。実は、彼もまたその発端に当事者として密接に関わっている。

瓜田は「関東連合」の人間ではない。だが、見立をはじめとする幹部たちは、中学時代からよく知る「地元の先輩たち」だ。そして、木村兄弟の兄・泰一郎とは同い年で、15歳の頃からの「親友」であった。

彼らの人物像は、書き手の体験を通して表現される。本書の最大の特徴は、この人物描写の巧みさにある。たとえば、『いびつな絆』を読む限り、工藤明男は冷静沈着で、他者への気配りを怠らない紳士的人間のように思えるが、『遺書』を読むと、その印象は異なって感じられた。 工藤と瓜田の初対面のシーンを引用しよう。

《工藤は、ズカズカと僕らの間に割り込んできて、宮前愚連隊の昭和53年世代の先輩のひとりを、スパーン! と殴った。下からジャンプするように突き上げたパンチは、アッパーカットみたいに強烈だった。ぐらついた先輩に、工藤が言い放つ。「てめえこんなところで何やってんだよ! 油うってるヒマがあるなら、もっと地回り強化しろよ!」そして眉に思いきりシワを寄せて、僕をじろりと見渡した。そして、絶対に気づいたはずなのに、わざと三嶋くんに言った。「どれが瓜田ですか? 会わせてくださいよ」僕はピンときた。この場をプロデュースしたのは、工藤だ。》

瓜田が過去に著した自伝的作品である『ドブネズミのバラード』で見られた、「THE・虎舞龍」の歌詞にちょっと似た独特の文体は消えている。会話文が多用される本書は、いわば「小説風」の端正なノンフィクションだ。この書き方の変化に、見てきたものをひとりでも多くの人に伝えたいという、確固たる意志を感じる。

とは言え、気になる点がないわけではない。

副題である「関東連合崩壊の真実と、ある兄弟の絆」は、『いびつな絆 関東連合の真実』をずいぶんと意識しているように思える。事実、見立による恐怖政治のなかで醸成された「負の『絆』」を原因とする後者に対して、前者は対称的に「関東連合」が唯一制圧できなかった兄弟の「愛の『絆』」を強調して締めくくられる。「疑心暗鬼」と「信頼」。まるで計算されたかのように収斂する構成は、少しばかり出来過ぎの感がある。

また、瓜田は『週刊大衆』2013年3月27日号のインタビュー記事において、「フラワー事件」で先んじて出頭した小池幹二と國田正春を「仲間や後輩を売る」行為をしたとして非難している。本書のなかにも彼ら(と思われる人物)が登場するが、裁判で公平に裁かれるべき被告に対してバイアスがかかるおそれがある。

ゴシップ記事やネット上の有象無象のうわさ話を、好奇心から消費している私たち。本書はその種のものと一線を画していることは間違いない。書き手の言葉を本気で受け止めなければならないと思わせる、それだけの強度が確かにある。少なくとも『いびつな絆』に勝るとも劣らない作品だ。

理由はシンプル。それは、書き手が生命を賭して世に送ったものだからである。工藤明男は出版がひとつの要因となり「関東連合」の主流派から命を狙われているという。現在、彼は警察の保護対象者となっている。瓜田純士もまた「伝えたい事実が伝われば、どんな誹謗中傷も受ける覚悟はできている」、「死ぬまでにどうしても世の中に残しておきたい」と綴っている。『遺書』という題名には、後悔と、責任と、覚悟が込められているのだ。

暴力が人を従わせる絶対的な力であることを、男は、10代前半で学んだ。30歳を過ぎて、男は、言葉が人を動かす力になりうることを信じている。

元アウトローのカリスマ瓜田純士がパニック障害と闘った日々(2015年)[編集]

“元アウトローのカリスマ”こと瓜田純士(35)が2015年秋、人知れず「パニック障害」に苦しんでいた。外出しようとすると動悸が高まり、体も硬直してしまうパニック障害。

ある日突然、なんの前触れもなく、この症状に襲われるようになったそうだ。以来、何週間も自宅に引きこもり、「このまま一生治らないんじゃないか」と悲嘆に暮れる日々を送ってきたが、最近になってようやく回復の兆しが見えてきたという。リハビリを兼ねて街へ出た瓜田に、話を聞いた。

この秋、文庫版『遺書』(竹書房文庫)と、新著『國殺』(竹書房)を相次いで出版した瓜田。さぞかし絶好調な毎日を送っているのかと思いきや、不調のドン底でもがき苦しんでいた。

「歩いてここまで遠出したのは、冗談抜きで3週間ぶりです」。自宅から300メートルほどしか離れていない新宿二丁目の街角に立ち、感慨深げにそう語る瓜田。「最寄りのコンビニに行くのも怖かった僕が、これだけの人混みの中にいても大丈夫ってことは、だいぶ回復した証拠。数週間前の僕は、一生外には出られないんじゃないかという絶望の真っ只中にいましたから」。

パニック障害を克服しつつある瓜田が、“暗黒の日々”を振り返る。

――体調の異変を最初に感じたのは、いつでしょう?

瓜田 10月初旬ごろです。嫁と二人で家の近所を歩いているときに突然、新宿通りまで出るのが怖くなり、引き返したのが最初。その後も外出しようとする度に、動悸が高まるとともに冷や汗が溢れ出て、空間認識能力が狂うというか、空間に圧迫されるような感覚に陥り、体が硬直してしまう。足掻こうとしても、脳がストップをかけているのか、体が動かないんですよ。

――それがパニック障害であるということは、医師の診断でわかったんですか?

瓜田 パニック障害の経験者である嫁から、たぶんそうだと教わりました。自分でもインターネットなどで調べたところ、症状がことごとく一致したので、あぁそうなのかと。なんの前触れもなく、いきなり来たから最初は戸惑いましたし、ものすごく不安になりました。

――原因にお心当たりは?

瓜田 いま冷静に分析すると、おそらくそもそものスタートは、秋の花粉症がツラくて眠れない日々が4日ほど続いたことだと思います。鍼(はり)の先生から聞いたんですけど、睡眠不足が何日も続くと、脳内の神経伝達物質のバランスが崩れて、パニック障害になりやすいそうです。眠れないとストレスになりますし、肩や首が凝って、脳への血の巡りも悪くなりますから。

――心療内科には通ったんですか?

瓜田 いや、心療内科は治療が長引く予感がしたので避けました。これまでの数多くの通院経験から、「今回はきっと自律神経に関係のある症状。神経を刺激するものといえば鍼」と判断し、鍼に通い始めた成果もあって、こうして短期間で表に出て、酒を飲み、人と話せるまでに回復しました。「眠れないストレスがそうさせた」という答えが見えてきたら、予期不安に襲われても、この闇はいつか抜けるものだと思えて、乗り切れることができるようになった。原因がわからないうちは本当にツラかったです。外に出るなんて、裸で戦場に行くような恐怖でした。

――パニック障害は、家にいる間も苦しいんですか?

瓜田 家では多少は安らぐんですけど、それでも症状が重い時期は、嫁に対する言動が荒くなってしまう。わかってほしい焦りから、ついつい当たってしまうんです。あと、ずっと家にいるから思考がだんだんネガティブになり、食も細くなり、日ごとにやつれていく時期もありました。最大の理解者である嫁がいつも寄り添ってくれて、食事を世話してくれて、いろんな知恵を授けてくれたおかげで脱出の手がかりをつかめましたが、もし一人暮らしだったらと思うとゾッとしますね。

――快方に向かっていった過程を教えてください。

瓜田 先ほど言ったとおり鍼治療は効果的でしたが、それは気休め程度のもの。僕の場合、パニック障害を論理的に把握することがかなり有効でした。まず、「パニック障害で死ぬことはない」ということを知り、気持ちがだいぶラクになった。次に、原因はなんなのか? その原因を最短で解消するにはどうすればいいのか? という仕組みがわかるにつれ、出口が見えてきた。そして何より僕を勇気づけてくれたのは、治し方うんぬんよりも、「実際に治った人が何人もいる」という具体的な情報でした。何人もの著名な方々がパニック障害に苦しんだ過去を持ちながらも、いま現在、表舞台で活躍されている事実を知り、自分もいつか治るはずだという自信が少しずつ湧いてきましたね。

――花粉症による不眠のストレスがパニック障害のきっかけになったとの自己分析ですが、出版に向けてのプレッシャーもまた、症状を悪化させる一因となったのでは?

瓜田 それも大いにあります。文章を書いたはいいけど、ちゃんとカタチになるのか? ちゃんと宣伝はしてもらえるのか? そうした思いを出版社にぶつけたほうがいいのか? いや、言うと信頼関係が壊れるんじゃないか?……などの不安や葛藤がストレスになり、心身の調子がさらに悪くなっていった部分もあります。10月下旬に竹書房から「『國殺』の見本が刷り上がった」との連絡が来たんですが、そのときもコンディションは最悪で、外へ出るのも人と会うのも怖かったから、取りに行くべきかどうか迷いました。

――結局どうしたのでしょう?

瓜田 人が大勢いる電車に乗るのは考えられなかったので、嫁に同伴してもらい、タクシーを拾って竹書房に向かったんですが、車のドアが閉まった瞬間、圧迫感で発作が起きて、手もガクガク震えだした。信号で車が止まる度に息が苦しくなるんですけど、途中下車したらもっと苦しくなるのは明らかなので、嫁に励まされながら、なんとか飯田橋までたどり着きました。タクシーを降りてからもツラくてツラくて、「もうダメだ! 帰ろう!」と駄々をこねましたが、嫁に説得されながらどうにか竹書房のビルに入って、本を受け取りました。

――そのときの心境は?

瓜田 本を受け取った瞬間に、ウソみたく元気になりました。渡された本を見てホッと安心するとともに、俺はまだ終わっていない! っていう自信がふつふつと湧いてきた。同伴してくれた嫁が僕の作品を手に取り、「純士、よう頑張ったな。これ、ホンマにすごいことやで」と涙を流しながら言ってくれたときはホント、こいつと一緒になってよかった、この人を幸せにしないといけないな、と思いました。嫁は僕が絶不調のときに「純士が仮に一生病気でも、一生付き合う」と言ってくれた。ありがとうの言葉しかないです。

――その日の帰り道は?

瓜田 帰りのタクシーではパニくることなく、平常心を維持できた。てことは結局、出版への重圧もパニック障害の一因だったということですが、それがわかったことでさらに気がラクになりました。以来、物事をプラスに考えられるようになって、発作が減ったり、外出頻度が上がったり、徐々に快方に向かいつつあります。10を全快とするなら、いまは7ぐらいでしょうか。

――大変なご苦労があったんですね。

瓜田 今回の闘病で気づいたのは、人間は日々、無意識下でいろいろなストレスを感じながら生きているということです。例えば、テンションが低いときに誰かから電話がかかってきて、本当は出たくないのに元気なふりをして出たりすることって、誰にでもあると思うんですが、それも小さなストレスなんです。あるいは、人混みの中を歩いているときに、誰かとぶつかりそうになって避ける。それも小さなストレス。そうした微量なストレスが積み重なり、何かのきっかけではじけてしまうと、僕みたいにパニック障害になってしまう。

――瓜田さんが人混みを歩くと、周囲がストレスを感じて避けるとの噂も……。

瓜田 確かに僕が胸を張って人混みの中を歩くと、みんなが勝手に避けてくれます(笑)。でもその歩き方って、実はものすごくパワーを使っていたんだなって思います。気張っているから肩や首が凝るんですよ。

――「新宿の瓜田」というプライドゆえの気張りですか?

瓜田 少年時代に不良の世界で、弱いのに新宿のアタマになってしまった。以来、「街は虚勢を張るところ」「街はライブの自分を見せるステージ」っていう感覚で生きてきましたから、弱った自分を家族以外には見せたくなくて、このところずっと引きこもっていたという部分もあります。

――アウトローの世界で名を売った男ならではの悩みですね。

瓜田 「アウトローのカリスマ」なんて呼ばれたこともありますけど、それは分不相応ですよ。いまの僕は、嫁にとってのカリスマでありたいだけ。他の誰にどう思われても関係ない。嫁に「この人を信じてついてきてよかった」って思われたいだけなんです。裏を返せば、そういう絆の強まりを確認できただけでも、今回パニック障害になってよかった。無駄ではなかった。プラスになった。あれだけツラい日々を送ったんだから、そうでも思わないと、貧乏性の僕としては割に合わないですよ(笑)。

――パニック障害になったことで得た教訓は?

瓜田 例えば格闘技をやっている後輩たちにも、やがて年齢的な限界がくるでしょう。体が動かなくなったとき、その先の人生は果たしてどうなるのか? ってことを考えると、彼らは10年後がめちゃくちゃ怖いと思うんです。でもね、10年後を怖がって今日萎縮するより、明日を怖がって今日動くような生活をしないとダメ。いきなりのことが起きたときはマジで、10年後のことなんて考えられもしないですよ。僕はパニック障害になって一時期、何もかもがどうでもよくなっちゃいましたもん。「明日をビビって今日動けないぐらいだったら、明日が来ないと思って今日動いたほうがいい」。それが今回得た教訓です。

――いい言葉ですね。

瓜田 だから僕はいま、自分の本がとにかく売れてほしいんです。名前を売りたいからでも、派手に遊びたいからでもない。シンプルにカネがほしいんです。何かあったときのためにいまからカネをためておかないと危ない、っていう考えです。僕や嫁が医者の世話になるかもしれない老後のことも考えて、いまから貯金をしておきたいんですよ。

――瓜田さんの発言とは思えませんね。

瓜田 ぶっちゃけこのトシになると、もうムチャはできないですよ。保険をかけちゃう。若いときは考えもしなかったけど、健康あっての幸せです。認めますよ。「瓜田純士は丸くなった」と。尖ったふりはしたくないですもん。痛いものを痛いと言えない世界、怖いものを怖いと言えない世界にいたから、丸くなったと素直に言えるいまはとてもラクです。

――さきほど「弱いのに新宿のアタマになってしまった」とおっしゃいましたが、弱さを自覚したのはいつですか?

瓜田 この際だからはっきり言いますが、僕はガキのころからタイマンが苦手だったんです。なんでかというとガキのケンカなんてジャンケンと一緒で、どれだけコンディションが良くても気持ちで勝っていても、負けるときは負けるんですよ。僕は背が高かったけど、タックルを食らって倒されたりして、「あれ? なんでこんなチビに?」っていう相手にも、けっこう負けたり苦戦したりした。タイマンは不良の見せ場で、ギャラリーが見たいのはきれいに勝つシーン。でも、なかなかきれいにはいかず、たいていゴチャゴチャになるんです。で、ゼェゼェ息切れしている間に先輩の止めが入り、「純士が押されていたな」と言われたり、仲間からも「瓜田はたいしたことない」と思われたりしちゃう。「あれ? おかしいな? もういっぺんやらせてくれ」と言っても、ガキのケンカに2ラウンドはないんです。ある時期そんな感じで負けが続いてしまって、もうタイマンを張るのはイヤだと思い、絶対的に自分が一番ってことを見せつけるケンカのやり方を覚えちゃったんですよ。

――そのやり方とは?

瓜田 要は「場面」ですよ。手下を使ってめちゃくちゃ怖い思いをさせてから、泣きながらブルブル震えているヤツのもとに、リーダーの僕があとから現れて、威圧感をたっぷり漂わせながら「てめえこの野郎」と言葉でさんざんいたぶるわけです。相手は萎縮して謝るしかない。腕力ではなく、空気感で相手を屈服させるんです。いちいちタイマンを張っていたら負けるリスクがあるから、そういう手をよく使いました。ズルしてでも勝ちにこだわったんです。

――本職顔負けのやり方ですね。

瓜田 実際、ナメられたくないという思いから本職になった時期もありました。でも、タイマンが苦手というコンプレックスを抱えたまま大人になったら未来がない。そう思って出たのが、第一回のジ・アウトサイダー(編注/リングス・前田日明主催の不良更生を目的とする格闘技大会)だったんです。あれは、大勢の観客の前で行う正真正銘のタイマンでしたから、だいぶ自分に打ち勝つことができた。やっぱ人間、どこかで一度は戦わないとダメですね。

――そんな出場動機だったとは知りませんでした。

瓜田 調子に乗って出た第二回大会では北海道の青年にボコボコにやられちゃいましたが(笑)、勝ち戦しか知らないヤツはどっかで死んだりしますから、あれもいいクスリです。自分の力を過信しちゃダメ。運だっていつかは尽きます。僕は痛い思いや苦しい思いをいっぱいしてきたから、運がないのかなって思うこともあるけど、その分、嫁との幸せを手に入れることができたからオールOKですね。

苦難を乗り越え、虚飾を脱ぎ捨て、真実の愛にたどり着いた瓜田。街はハロウィンに沸いていたが、午後10時になると「嫁に心配をかけたくないので」と言い残し、家路についた。

書籍等[編集]

文庫[編集]

  • ドブネズミのバラード(2008年9月12日 太田出版 ISBN-10: 4778311477)

DVD[編集]

  • History 瓜田純士ドキュメント(2011年2月26日 NOTO)

外部リンク[編集]