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== 学生時代 ==
 
== 学生時代 ==
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『[[太陽の季節]]』を引っ提げて華々しくデビューしたとき、[[マスメディア|マスコミ]]は慎太郎をこぞってとりあげた。「五つの道をゆく“石原慎太郎”批判」と題し、9ページもの大特集を組んだ『[[サンデー毎日]]』 (1956年9月9日号) もその一つだった。この記事の中に、湘南高校時代の慎太郎の[[左翼]]活動に関する一節がある。
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<blockquote>慎太郎が高校一年の時だった。[[学生運動]]が盛んになろうとしていた1948年に、民主学生同盟にいち早く入り、学内に社会研究会を作った。[[日本共産党]]へのヒロイックな気持にかられていた時、母は“[[大衆]]のために両親や弟を、そして地位も財産も捨て、獄につながれても後悔しない自信があるなら、私は反対しないが、その覚悟をしてほしい。それならお父さんが、どんなに反対しても、私は賛成する”この言葉にそのあくる日から彼は[[学生運動]]を離れている。</blockquote>
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慎太郎は後にこの点について、『芸術生活』編集長の御木白日との対談の中で「女親っていうのはバカだから。主義主張が母親の意見で変わるなんてウソですよ。精神風俗としてそういうものに興味をもったから、親が心配したというだけの話です」と否定的に語っている。
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== 作家として ==
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=== 芥川賞受賞 ===
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一橋大学在学中に、『太陽の季節』で第34回「芥川賞」を受賞。
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『ひばり裕次郎 昭和の謎』によると、「昭和三十年、まだ一橋大生だった石原慎太郎が書いた『[[太陽の季節]]』が芥川賞を受賞したが、その余りにえげつない風俗描写に世間は眼を剥 (む) いた。青い海原にうかぶ白いヨットやモーターボートの上でくりひろげられる若い男女の赤裸々な[[セックス]]、恋人交換、殺人。そして―、
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<blockquote>[裸の上半身にタオルをかけ、離れに上がると彼は[[障子]]の外から声を掛けた。“英子さん”部屋の英子がこちらを向いた気配に、彼は[[勃起]] (ぼっき) した[[陰茎]]を外から障子に突き立てた。[[障子]]は乾いた音をたてて破れ、それを見た英子は読んでいた本を力一杯障子にぶつけたのだ。本は見事、的に当って畳に落ちた。その瞬間、竜哉は体中が引き締まるような快感を感じた (『[[太陽の季節]]』) 。〕</blockquote>
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この"[[勃起]] (ぼっき) する男性シンボル"場面は文壇にも旋風を巻き起こし、支持派と反対派の真っ二つに分れた。支持派の[[舟橋聖一]]は、"若い石原が世間を恐れず、率直に生き生きと《快楽》に対決してその実感を容赦なく描き上げた肯定的積極感が好きだ"と述べ、反対派の[[佐藤春夫]]は、"この作者の鋭敏げな時代感覚も、ジャーナリストや興行者の域を出ず[[文学者]]のものではない。美的節度の欠如"と評し、カンカンガクガクの論争が続いた」
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=== 現在に至るまで ===
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その後『[[処刑の部屋]]』 (映画原作) 、『[[聖餐 (小説)|聖餐]]』といった現代の世相を鋭くえぐり出すのが特徴の同種の作品を多数発表した。1957年10月『新潮』に発表した「完全な遊戯」について、[[高見順]]宅へ行った際、『群像』編集長の[[大久保房男]]と口論になり、『群像』には一度も執筆していない。
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政治家への転身以降、発表する作品数は減ったものの、現在に至るまで一貫して創作活動を行っている。[[1970年]] (昭和45年) に書下ろし長篇『化石の森』で[[芸術選奨]]文部大臣賞、[[1988年]] (昭和63年) 、『生還』で[[平林たい子文学賞]]を受賞。弟裕次郎を描いた[[1996年]] (平成8年) の『弟』は120万部を売り上げ、[[毎日出版文化賞]]特別賞を受賞した。創作以外でも『[[スパルタ教育]]』 ([[1969年]]、70万部) 『[[「NO」と言える日本]]』 ([[1989年]]、125万部) 、『法華経を生きる』 ([[1998年]]、33万部) 『老いてこそ人生』 ([[2002年]]、82万部) などのベストセラーを刊行している。
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[[1995年]]から[[2012年]]まで芥川賞の選考委員を務めていたが、辛口の批評が多かった。石原が推して受賞した者に[[辻仁成]]、[[町田康]]、[[青来有一]]、[[中村文則]]、[[青山七恵]]、[[西村賢太]]などがいる。また[[1992年]]から[[1999年]]まで[[三島由紀夫賞]]選考委員を務めた。2012年の第146回芥川賞の選考会の前に候補作のほぼ全てを中傷したが、選考会後に受賞者の[[田中慎弥]]に批判を受けると「田中君の作品は評価していた」と発言をし、その直後に選考委員を辞任した。
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映像作家としては、弟の裕次郎を世に送り出すことになった自作の映画化『狂った果実』で脚本を担当して以降、映画やテレビで自作小説の脚色を多く手がけている他、[[1958年]] (昭和33年) 、[[東宝映画]]『若い獣』で初[[映画監督|監督]]を務める。[[2007年]] (平成19年) 5月には映画『[[俺は、君のためにこそ死ににいく]]』を発表。制作・指揮・脚本を手がけた。
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== 東京都知事として ==
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財政運営面では、財政危機に対応し自らの知事給与を10%カットするなど、人件費の圧縮や[[福祉]]・[[教育]]及び[[学術]][[研究]]予算の削減を行い、一方で「東京から国を変える」をスローガンに自らの発案になる大型プロジェクトや臨海開発事業へは積極的な投資を行うのが石原都政の特徴である。[[銀行]]への外形標準課税 (銀行税) の導入、日本初で世界三番目のキャップ・アンド・トレード型排出量取引制度の導入、[[浮遊粒子状物質]] (SPM) を減らすための[[ディーゼルエンジン|ディーゼル]]車[[排ガス規制]]での硫黄除去装置導入、中小企業の支援のため1000億円の都予算を投入した[[新銀行東京]] ([[石原銀行]]とも) の設立、[[首都大学東京]]の開学など、全国に先駆けた政策は注目を浴びた。知事三期目は二度目の'''[[2016年東京オリンピック構想|東京オリンピック]]'''の開催を実現することを選挙公約とした。
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特別会計や監理団体なども含めた東京都の連結での[[負債]] (借金) は、[[バブル経済]]崩壊後の景気回復の影響を受けた[[都税]]収入の増加などにより、都の財政が黒字化して債務は減少しつつある。一方、特別会計や監理団体の財政は厳しく、これまで都が運営してきた多くの施設の財団化、もしくは[[指定管理者制度]]の導入による[[民営化]]を進めている。
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また、[[日本の警察官]]の増員、警察官僚出身の[[竹花豊]]の[[副知事]]への任命など治安対策を重視しており、新宿[[歌舞伎町]]などの違法営業店の数が激減した。
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[[2007年]] (平成19年) には[[猪瀬直樹]]を副知事に起用。猪瀬は[[東京DC特区構想]] ([[山手線]]の中側を中心とした区域を政府直轄地にして東京から切り離す) を提案し、オリンピック誘致にも懐疑的であるなど主張が異なる部分もあるが、石原は猪瀬について、「個人的に次の知事にふさわしいと思う」と話している。知事・副知事共に現役の作家というのは異例の組み合わせである。同年、[[東京マラソン]]の開催を実現した。
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=== 主要な政策 ===

2012年5月2日 (水) 15:16時点における版

石原 慎太郎

石原 慎太郎 (いしはら しんたろう、旧字体:石原 愼太郎1932年 (昭和7年) 9月30日 - ) は、日本政治家作家東京都知事 (第14・15・16・17代) 。

参議院議員 (1期) 、衆議院議員 (8期) 、環境庁長官 (第8代) 、運輸大臣 (第59代) を歴任した。

所属政党 = (自由民主党→) (無所属→) (自由民主党→) 無所属

1999年4月23日~現職

1987年11月6日1988年12月27日

1976年12月24日1977年11月28日
1972年12月~1995年4月
1968年7月8日1972年11月25日第33回衆議院議員総選挙立候補により自動失職

概要

兵庫県神戸市須磨区生まれ。湘南高等学校一橋大学法学部卒業。

一橋大学では社会心理学の南博ゼミに所属。大学在学中の1956年 (昭和31年) に文壇デビュー作である『太陽の季節』が第34回芥川賞を受賞、「太陽族」が生まれる契機となる。また、同作品の映画化では弟・裕次郎をデビューさせた。作家としては他に芸術選奨文部大臣賞平林たい子文学賞などを受賞。『「NO」と言える日本 -新日米関係の方策-』 (盛田昭夫との共著) 、弟・裕次郎を題材にした『弟』はミリオンセラーとなった。現在、芥川賞選考委員。

ベトナム戦争を取材した経験から政治家を志し、1968年 (昭和43年) に参議院議員選挙全国区から出馬し初当選。1972年 (昭和47年) には衆議院に鞍替え出馬し当選、以後当選8回。1975年 (昭和50年) 、現職の美濃部亮吉に挑戦する形で東京都知事選挙に自民党推薦で出馬するも落選。その後衆議院議員に復帰し、1976年 (昭和51年) に福田赳夫内閣環境庁長官を、1987年 (昭和62年) に竹下内閣運輸大臣を歴任、1989年 (平成元年) には自民党総裁選に立候補し、海部俊樹に敗れる。1995年 (平成7年) 、議員勤続25年を祝う永年勤続表彰の場で、突如議員辞職を表明した。

1999年東京都知事選挙に出馬。立候補の表明は有力候補中最も遅かったが、舛添要一鳩山邦夫明石康柿澤弘治といった有力候補を抑え初当選する。2003年東京都知事選挙では史上最高の得票率で再選、2007年東京都知事選挙では浅野史郎らを破り3選を果たす。2011年東京都知事選挙では当初不出馬が取り沙汰されたものの、東国原英夫らを破り4選。

都知事就任以降、毎年8月15日靖国参拝する。新しい歴史教科書をつくる会に賛同している。日本会議代表委員、戸塚ヨットスクールを支援する会会長を務める。江藤淳の後を引き継ぎ、産経新聞エッセイ『日本よ』を連載している。

趣味ヨットテニススキューバダイビング射撃。身長181cm、体重77kg、天秤座俳優石原裕次郎は弟。家族は妻 (石原典子) と4男 (自由民主党幹事長石原伸晃は長男、俳優・タレント石原良純は次男、前衆議院議員石原宏高は三男、画家石原延啓は四男) 。

石原は様々な差別的思想の考えを持っており、それに関しての部分が批判されることもあるが、逆に作家としての能力は高く評価されている。

略年譜

9月30日 - 兵庫県神戸市須磨区にて海運会社山下汽船に勤める石原潔・光子の長男として生まれる。父・潔は愛媛県長浜町に生まれ、旧制宇和島中学 (現在の宇和島東高校) を中退し山下汽船に入社した。店童 (てんどう) あがりだったにもかかわらず、最後は関連会社重役にまで出世した。母・光子は広島県厳島の出身。なお石原自身は神奈川県を出身地としている。
12月28日 - 弟の裕次郎が生まれる。
6月 - 父が小樽出張所主任となり北海道小樽市に転居。小樽藤幼稚園卒園し稲穂国民学校に進学
2月 - 父が東京支店副長の辞令を受け神奈川県逗子市に転居。石原一家が逗子で最初に住んだ桜山の家は山下汽船創業者山下亀三郎の別邸。
4月 - 神奈川県立湘南中学(後の神奈川県立湘南高等学校)へ進学。
立身出世主義的な校風に反撥し、胃腸の病を口実に1年間[[休学]。休学中は文学美術演劇音楽映画に耽溺し、フランス語を学習。
10月 - 父が脳溢血で急死。山下近海汽船社長二神範蔵から一橋大への進学と、当時できたばかりの公認会計士の取得を強くすすめられる。
4月 - 一橋大学法学部に入学。柔道部、サッカー部に入部する。簿記会計学などの勉強に励んだが半年間やってみて向いていないと悟り公認会計士になることを断念する。
12月 - 当時18歳だった石田由美子 (後に典子と改名) と結婚
1月 - 『太陽の季節』により第34回芥川賞を当時史上最年少で受賞、ベストセラーとなる。一橋大学法学部卒業。『太陽の季節』が日活で映画化され、弟・裕次郎が日活俳優としてデビューする。また自らも映画初出演を果たし、「太陽族」、「慎太郎刈り」が流行する。
映画『太陽の季節』が公開された際、登場人物が強姦・不純異性交遊等を行う反社会的内容から映画を見た青少年への影響が取りざたされ、映画倫理委員会 (通称、映倫) が作られる契機となった。
4月19日 - 長男・伸晃が誕生。
- 東宝で映画「若い獣」の監督を務める。また、大江健三郎江藤淳谷川俊太郎寺山修司浅利慶太永六輔黛敏郎福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対。
- 隊長として、南米横断1万キロ・ラリーラビットスクーターで参加。
1月15日 - 二男・良純が誕生。
3月 - 『狼生きろ豚は死ね・幻影の城』を新潮社より出版。
6月19日 - 三男・宏高が誕生。
- 四男・延啓が誕生。
- 読売新聞社の依頼で、ベトナム戦争を取材。
7月 - 第8回参議院議員通常選挙自民党から全国区に出馬し、史上初の300万票得票でトップ当選。2位青島幸男・3位上田哲であり、ライバル関係になっていた。
11月 - 『スパルタ教育』を光文社より出版。
11月25日 - 参議院議員を辞職。
12月10日 - 衆議院選挙旧東京2区から無所属で出馬して当選。後に自民党に復党。
7月 - 渡辺美智雄中川一郎浜田幸一らと憲法改正や金権政治の打破を謳ったタカ派集団「青嵐会」を結成。
3月18日 - 衆議院議員を辞職。
4月13日 - 現職の美濃部亮吉に挑戦する形で東京都知事選挙に自民党推薦で出馬。233万票を得票するも落選。
12月5日- 衆院選で国政に復帰(同区で民社党新人大内啓伍も当選)。同月24日発足の福田赳夫内閣_(改造)環境庁長官に就任。
- 弟の裕次郎が倒れた際に小笠原諸島から海上自衛隊飛行艇を呼び寄せて帰京し、公私混同として問題になる。燃料代は160万円かかっていた。
- 自由民主党の派閥自由革新同友会を継いで代表就任、後に清和会へ合流。黒シール事件によって野村秋介より抗議を受ける。
7月17日 - 弟・裕次郎が肝細胞癌で逝去 (52歳) 。
11月6日 - 竹下内閣運輸大臣に就任。
4月8日 - 『漁業施設がヨットに危険』と発言し、海上保安庁に漁業施設を総点検させることになる。
8月8日 - 亀井静香平沼赳夫園田博之らに推される形で自民党総裁選に出馬するも竹下派が推す河本派海部俊樹に敗れる。 『「NO」と言える日本』を盛田昭夫と共著で出版。
2月18日 - 第39回衆議院議員総選挙旧東京4区で長男の伸晃が初当選し、父子揃って衆議院議員となる。
4月14日 - 国会議員在職25年表彰の国会演説で突然の議員辞職を表明(最初の地盤継承者は栗本慎一郎)。
- 弟の石原裕次郎をテーマに『弟』を発表。
4月11日 - 1999年東京都知事選挙に出馬。立候補表明の記者会見での第一声の、「石原裕次郎の兄でございます」と言う挨拶ギャグが話題を呼ぶ。鳩山邦夫舛添要一明石康柿澤弘治ら有力候補がひしめく中、166万票を得票して当選 (舛添と喧嘩別れした栗本や、栗本が同年末に復党する政党自由連合代表徳田虎雄の支援受けた)
4月13日 - 2003年東京都知事選挙に出馬。308万票(得票率史上最高)を獲得し、樋口恵子若林義春らを破り再選。石原の圧勝が事前に予想されていたためか、珍しく候補者の少ない都知事選であった。
11月17 - 21日 - 「弟」テレビドラマ化。
4月8日 - 2007年東京都知事選挙に出馬。投票の過半数にあたる281万票を獲得し、浅野史郎吉田万三黒川紀章らを破り3選。
4月10日 たちあがれ日本・応援団長就任
4月10日 - 一時は3期目での退任を考慮した中で、2011年東京都知事選挙に出馬を決断し、立候補。東国原英夫小池晃らを破り、2,615,120票を獲得して四選を果たした (得票率は43.4%) 。

学生時代

太陽の季節』を引っ提げて華々しくデビューしたとき、マスコミは慎太郎をこぞってとりあげた。「五つの道をゆく“石原慎太郎”批判」と題し、9ページもの大特集を組んだ『サンデー毎日』 (1956年9月9日号) もその一つだった。この記事の中に、湘南高校時代の慎太郎の左翼活動に関する一節がある。

慎太郎が高校一年の時だった。学生運動が盛んになろうとしていた1948年に、民主学生同盟にいち早く入り、学内に社会研究会を作った。日本共産党へのヒロイックな気持にかられていた時、母は“大衆のために両親や弟を、そして地位も財産も捨て、獄につながれても後悔しない自信があるなら、私は反対しないが、その覚悟をしてほしい。それならお父さんが、どんなに反対しても、私は賛成する”この言葉にそのあくる日から彼は学生運動を離れている。

慎太郎は後にこの点について、『芸術生活』編集長の御木白日との対談の中で「女親っていうのはバカだから。主義主張が母親の意見で変わるなんてウソですよ。精神風俗としてそういうものに興味をもったから、親が心配したというだけの話です」と否定的に語っている。

作家として

芥川賞受賞

一橋大学在学中に、『太陽の季節』で第34回「芥川賞」を受賞。

『ひばり裕次郎 昭和の謎』によると、「昭和三十年、まだ一橋大生だった石原慎太郎が書いた『太陽の季節』が芥川賞を受賞したが、その余りにえげつない風俗描写に世間は眼を剥 (む) いた。青い海原にうかぶ白いヨットやモーターボートの上でくりひろげられる若い男女の赤裸々なセックス、恋人交換、殺人。そして―、

[裸の上半身にタオルをかけ、離れに上がると彼は障子の外から声を掛けた。“英子さん”部屋の英子がこちらを向いた気配に、彼は勃起 (ぼっき) した陰茎を外から障子に突き立てた。障子は乾いた音をたてて破れ、それを見た英子は読んでいた本を力一杯障子にぶつけたのだ。本は見事、的に当って畳に落ちた。その瞬間、竜哉は体中が引き締まるような快感を感じた (『太陽の季節』) 。〕

この"勃起 (ぼっき) する男性シンボル"場面は文壇にも旋風を巻き起こし、支持派と反対派の真っ二つに分れた。支持派の舟橋聖一は、"若い石原が世間を恐れず、率直に生き生きと《快楽》に対決してその実感を容赦なく描き上げた肯定的積極感が好きだ"と述べ、反対派の佐藤春夫は、"この作者の鋭敏げな時代感覚も、ジャーナリストや興行者の域を出ず文学者のものではない。美的節度の欠如"と評し、カンカンガクガクの論争が続いた」

現在に至るまで

その後『処刑の部屋』 (映画原作) 、『聖餐』といった現代の世相を鋭くえぐり出すのが特徴の同種の作品を多数発表した。1957年10月『新潮』に発表した「完全な遊戯」について、高見順宅へ行った際、『群像』編集長の大久保房男と口論になり、『群像』には一度も執筆していない。

政治家への転身以降、発表する作品数は減ったものの、現在に至るまで一貫して創作活動を行っている。1970年 (昭和45年) に書下ろし長篇『化石の森』で芸術選奨文部大臣賞、1988年 (昭和63年) 、『生還』で平林たい子文学賞を受賞。弟裕次郎を描いた1996年 (平成8年) の『弟』は120万部を売り上げ、毎日出版文化賞特別賞を受賞した。創作以外でも『スパルタ教育』 (1969年、70万部) 『「NO」と言える日本』 (1989年、125万部) 、『法華経を生きる』 (1998年、33万部) 『老いてこそ人生』 (2002年、82万部) などのベストセラーを刊行している。

1995年から2012年まで芥川賞の選考委員を務めていたが、辛口の批評が多かった。石原が推して受賞した者に辻仁成町田康青来有一中村文則青山七恵西村賢太などがいる。また1992年から1999年まで三島由紀夫賞選考委員を務めた。2012年の第146回芥川賞の選考会の前に候補作のほぼ全てを中傷したが、選考会後に受賞者の田中慎弥に批判を受けると「田中君の作品は評価していた」と発言をし、その直後に選考委員を辞任した。

映像作家としては、弟の裕次郎を世に送り出すことになった自作の映画化『狂った果実』で脚本を担当して以降、映画やテレビで自作小説の脚色を多く手がけている他、1958年 (昭和33年) 、東宝映画『若い獣』で初監督を務める。2007年 (平成19年) 5月には映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』を発表。制作・指揮・脚本を手がけた。

東京都知事として

財政運営面では、財政危機に対応し自らの知事給与を10%カットするなど、人件費の圧縮や福祉教育及び学術研究予算の削減を行い、一方で「東京から国を変える」をスローガンに自らの発案になる大型プロジェクトや臨海開発事業へは積極的な投資を行うのが石原都政の特徴である。銀行への外形標準課税 (銀行税) の導入、日本初で世界三番目のキャップ・アンド・トレード型排出量取引制度の導入、浮遊粒子状物質 (SPM) を減らすためのディーゼル排ガス規制での硫黄除去装置導入、中小企業の支援のため1000億円の都予算を投入した新銀行東京 (石原銀行とも) の設立、首都大学東京の開学など、全国に先駆けた政策は注目を浴びた。知事三期目は二度目の東京オリンピックの開催を実現することを選挙公約とした。

特別会計や監理団体なども含めた東京都の連結での負債 (借金) は、バブル経済崩壊後の景気回復の影響を受けた都税収入の増加などにより、都の財政が黒字化して債務は減少しつつある。一方、特別会計や監理団体の財政は厳しく、これまで都が運営してきた多くの施設の財団化、もしくは指定管理者制度の導入による民営化を進めている。

また、日本の警察官の増員、警察官僚出身の竹花豊副知事への任命など治安対策を重視しており、新宿歌舞伎町などの違法営業店の数が激減した。

2007年 (平成19年) には猪瀬直樹を副知事に起用。猪瀬は東京DC特区構想 (山手線の中側を中心とした区域を政府直轄地にして東京から切り離す) を提案し、オリンピック誘致にも懐疑的であるなど主張が異なる部分もあるが、石原は猪瀬について、「個人的に次の知事にふさわしいと思う」と話している。知事・副知事共に現役の作家というのは異例の組み合わせである。同年、東京マラソンの開催を実現した。

主要な政策