運慶

提供: Yourpedia
2018年2月16日 (金) 00:09時点におけるEifuku21 (トーク | 投稿記録)による版 (銘文追加)

移動: 案内検索

運慶(うんけい、生年不詳 - 貞応2年12月11日(1224年1月3日))は、平安時代から鎌倉時代にかけて活動した仏師である。

経歴

平安時代末期の仏師である師康慶の子として生まれた。生年は不明であるが、1150年頃とみられる。その理由は20歳代半ばに製作したとみられる円成寺大日如来座像が安元二年(1176年)に製作されているからである。治承4年(1180年)には平家による奈良の東大寺・興福寺の焼き討ちにより像が滅失したため、興福寺の再興造像を円派、院派と呼ばれる京都仏師と、康慶・運慶らの属する奈良仏師とが分担して製作することになり、奈良仏師は運慶の父である康慶が興福寺南円堂の造仏を担当し、運慶も加わった。文治二年(1186年)頃からは鎌倉幕府から依頼された仕事を開始し、北条時政発願の静岡県伊豆の国市・願成就院の阿弥陀如来像、不動明王及び二童子像、毘沙門天像の製作を開始した。大日如来は密教における根本仏である。サンスクリット語のヴァイローチャナという名は「遍く光を照らす者」との意味である。

銘文
運慶承安永元年(1175)十一月廿四日始之
給料物上品八丈絹肆拾参(四十三)疋也
已上御身料也
奉渡安元弐年丙申十月十九日
大仏師康慶
実弟子運慶(花押)

作品

大日如来坐像 安元二年(1176年) 国宝

木造漆泊、玉眼、像高98.8。奈良 円成寺。

現存する運慶の作品のうち、最も早い二十台半ばの作品である。台座の部材の裏側に書かれた墨書に、安元元年(1175年)11月24日に製作を開始し、翌年安元二年(1176年)101月に完成したことが記されている。銘の最後に大仏師康慶実弟子運慶の署名と花押が記されている。像高100cm弱の像では、通常3ヵ月前後で製作されるので、1年近くかけて製作したことは珍しい。平安時代の作風の名残も見られるが、運慶の空間把握能力、人体表現など独自のダイナミックな表現がみられる。

毘沙門天立像 文治二年(1186年) 国宝

木造、彩色、玉眼。像高148.2。静岡 願成就院。

五輪塔形銘札に銘に文治二年(1186年)5月3日に像造を開始したと書かれている。運慶の東国における最初の造像である。奈良時代の神将形像の様式を取り入れつつ、腰をひねり、右手を高い位置に上げる姿や顔立ちに新しい創造性を実現した。

八大童子立像 建久八年(1197年)頃 国宝

木造、彩色、戴金、玉眼、 和歌山 金剛峯寺。

高野山一心院谷にあった不動堂に安置されていたが、現在は壇上伽藍に移設されている。 製作年代は、建久八年に行勝上人が一心院を建て、本堂に不動明王像、八大童子像を安置したと同時代資料の『五坊寂静院文書』明記されている。 壮年期の運慶が製作した、現存する像の一つとして重要である。『秘要法品』に記されている図像に基づきながら、ボリュームのある肉づき、軽快な動作、微妙な表情などが巧みに表現されている。