ダヤク族

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ダヤク族(ダヤクぞく、インドネシア語Dayak)は、日本占領時期の西ボルネオについての文脈では、ボルネオ島の先住民のうち、インドネシア人華人ではない民族の総称。ダイヤ族ダイヤック族とも。

シンタン県の場合[編集]

シンタン県では管内の人口約20万人のうち、70%がダイヤ族とされていた[1]

同地のダヤク族には14の種族があり、言葉や風習も異なっていた[2]入墨の種類の様々で、耳たぶに穴を開けて重りを吊したり、の飾りをはめ込む種族もあった[2]

カンポンによって客人の出迎え方も異なっていた[2]

  • 或る種族の場合、椰子の葉で飾った歓迎アーチを境にして、主客で問答をした後、歓迎路に並んだ人の差し出す濁酒を受けて飲み、式場に集った人がを屠殺してその血を手や足に塗り、切り出した肝臓を皿に載せて評定、状態によっては客人に危害を加えることもあったという[3]

様々な迷信もあり、新婚の翌日或る鳥が鳴いたら必ず別れなければならないとか、その鳥が鳴いたら仕事を止めて家に帰らなければならない、などの慣習があった[4]

また人の頭蓋骨を黒く燻して保管しておく習慣があった[2]

サンガウ・スカダウ分県の場合[編集]

サンガウ・スカダウ分県のダヤク族は主に山間部の奥地で暮らしていた。主食は陸稲木芋トウモロコシだった。奥地では数十世帯が竹造りの長屋に仕切りを付けて暮らしていた。男女とも腰下を隠すだけで裸に裸足だったが、必ず足を洗ってから家に上がっていた。上流の奥地へ行くほど原始的な生活をしているようにみえた。[5]

容貌は日本人とよく似ていた[5]濁酒で接待を受けたところ、戦前、日本で飲んだものと風味が同じで、男性の褌姿なども日本人とよく似ていた[6]

飛行場の建設[編集]

1943年から翌年にかけて、ボルネオ民政部ポンチアナク市郊外にスンゲイ・ドリアン飛行場を建設したときには、2,000人を各村に割当てて徴用した労務者のうち、200余人がダヤク族だった[7]

騒擾事件[編集]

1945年4月頃からタヤンムリアウ分県では、戦況が不利だとの報道が頻りに伝えられるようになり、それとともに管内のダヤク族や現地住民による暴動が激しくなった。県事務所の官吏は、身の危険を感じて海軍特別攻撃部隊の派遣を要請。同年7月1日に、県事務所近くまで来たダヤク族の数百人を派遣部隊が機関銃で銃撃する事件が起きた(ダイヤ族騒擾事件)。[8]

付録[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 赤道会 (1976) ポンチアナク赤道会『続赤道標』JPNO 73015036
  • 赤道会 (1975) ポンチアナク赤道会『赤道標』JPNO 73012073