ノストラダムス

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ノストラダムス(Nostradamus, 1503年12月14日 - 1566年7月2日)は、ルネサンスフランス医師西洋占星術[1]詩人。また料理研究の著作も著している。日本では「ノストラダムスの大予言」の名で知られる詩集を著した。彼の予言は、現在に至るまで多くの信奉者を生み出し、様々な論争を引き起こしてきた。

本名はミシェル・ド・ノートルダム(Michel de Nostredame)で、よく知られるノストラダムス(ミシェル・ノストラダムス)の名は、姓をラテン語風に綴ったものである。しばしば、「ミシェル・・ノストラダムス」と表記されることもあるが、後述するように適切なものではない。

概要[編集]

ノストラダムスは改宗ユダヤ人を先祖とし、1503年にプロヴァンスで生まれ、おそらくアヴィニョン大学教養科目を、モンペリエ大学医学を、それぞれ学んだ。南仏でのペスト流行時には、積極的に治療にあたり、後年その時の経験などを踏まえて『化粧品とジャム論』などを著した。

他方で、1550年頃から占星術師としての著述活動も始め、代表作『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』などを著し、当時大いにもてはやされた。王妃カトリーヌ・ド・メディシスら王族や有力者の中にも彼の予言を評価する者たちが現れ、1564年には、国王シャルル9世から「常任侍医兼顧問」に任命された。その2年後、病気により63歳で没した。

彼の作品で特によく知られているのが、『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』である(『諸世紀』という名称も流布しているが、適切なものではない)。そこに収められた四行詩による予言は非常に晦渋(かいじゅう)なため、後世様々に解釈され、その「的中例」が喧伝されてきた。あわせて、ノストラダムス自身の生涯にも多くの伝説が積み重ねられてゆき、結果として、信奉者たちにより「大予言者ノストラダムス」が祭り上げられることとなった(「ノストラダムス現象」も参照のこと)。

これに対する学術的な検証は、長らくほとんど行われてこなかったが、現在では、伝説を極力排除した彼の生涯や、彼が予言観や未来観を形成する上で強い影響を受けたと考えられる文献なども、徐々に明らかになっている。そうした知見を踏まえる形で、ルネサンス期の一人の人文主義者としてのノストラダムス像の形成や、彼の作品への文学的再評価などが、目下着実に行われつつある。

出自[編集]

ノストラダムス一族の主要人物も参照。

ノストラダムスの父方の先祖は、14世紀末以降、アヴィニョンで商業を営んでいた。父方の祖父がアンジュールネに仕えた医師・占星術師だったとするのは、ノストラダムスの長男による粉飾であり、彼も実際には商人であった。彼の一族を更に遡れば、失われた十支族イッサカル族に辿り着くといった話もあるが、これもまた創作である。

父方の曾祖父ダヴァン・ド・カルカソンヌと祖父クレカは、15世紀半ばにユダヤ教からキリスト教に改宗した。改宗した後、クレカは三度目の結婚相手の姓をもとに、ペイロ・ド・サント=マリーあるいはピエール・ド・ノートルダムと改名した。サント=マリーは妻の正式な姓であり、ノートルダムは妻の通称的な姓であったが、どちらも聖母マリアを意味する。祖父は改名後、理由は不明ながら後者の姓をより多く用いるようになり、それが息子や孫(ノストラダムス)にも引き継がれた。

ピエールの息子でノストラダムスの父にあたるジョーム・ド・ノートルダムも、当初はアヴィニョンで活動する商人だったが、サン=レミ=ド=プロヴァンス(当記事では以下サン=レミと略記)の住民レニエールと結婚した後、サン=レミに居を移した[2]

出自についての補足事項として、後段の「信仰について」も参照.

生涯[編集]

下掲の関連年表も参照

少年時代および遊学期[編集]

ノストラダムスは、1503年12月14日木曜日に、当時まだフランス王領に編入されて間もなかったプロヴァンス地方のサン=レミで生まれた[3]。幼い頃には母方の曾祖父ジャン・ド・サン=レミが教育係を務め、ノストラダムスに医学数学天文学ないし西洋占星術(加えて、ギリシャ語ラテン語カバラなどを含めることもある)の手ほどきをしたとも言われるが、ジャンは1504年頃に没していた可能性が高いため[4]、彼が教育を施したとは考えられない。父方ないし母方の祖父が教育係とされることもあるが、どちらも15世紀中に没しているので問題外である(これらは公文書類で確認できる)。結局のところ、彼が幼い頃に誰からどのような教育を受けていたかは、明らかになっていない。

ノストラダムスは、15歳前後(1518年頃)にアヴィニョン大学に入学し、自由七科を学んだようである。この点は実証的な伝記研究でも確実視されているものの[5]、史料的な裏付けはなく、入学時期もはっきりしない。在学中には、学友たちの前で、コペルニクスの『天球の回転について』の内容を20年以上先取りするかの如くに正確な地動説概念を語るなど、諸学問、特に天体の知識の卓抜さで知られていたとする「伝説」はあるが、裏付けとなる史料はなく、創作と思われる。このアヴィニョン大学在学は、1520年に中断を余儀なくされたと推測されている。ペストの影響でアヴィニョン大学をはじめとする南仏の大学の講義が停止されたからである[6]。このことは、1521年から1529年まで各地を遍歴し、薬草の採取や関連する知識の収集につとめたと、後に本人が語ったこととも矛盾しない[7]。他方で、遍歴に先立って、ノストラダムスがモンペリエ大学医学部で医師の資格を取得したとする説もあるが、現在では虚構の可能性が高いと考えられている。この説は、後にノストラダムスの秘書になったジャン=エメ・ド・シャヴィニーによるものだが、史料による確認が取れず、ノストラダムス自身が後の私信で、医学と判断占星術の研究歴を1521年頃から起算していることとも整合していない[8]。史料的に裏付けられる同大学入学は遍歴の後である。

博士号取得とアジャンでの日々[編集]

1521年からの約8年にわたる遍歴を経て、ノストラダムスは1529年10月23日にモンペリエ大学医学部に入学した。この時点で、薬剤師の資格は取得していたようであり、その後研究を重ねて医学博士号を取得したとされる。ただし、記録は確認されておらず、むしろ、当時の学生出納簿にはノストラダムスの名を抹消した形跡があり、この傍には、在学中に医師たちを悪く言ったかどで告発された旨の記述がある [9]

なお、この頃の「伝説」としては、博士号取得後に請われて同大学の教授として教鞭を執ったが、保守的な教授たちとの軋轢が生まれ、1年で職を辞することとなったというものがある。しかし、これを裏付ける史料は見つかっていない。

従来博士号を取得したとされてきたこの時期の前後に、エラスムスに比肩しうる学者として知られていた、アジャンジュール・セザール・スカリジェの招きを受けたこともあり、ノストラダムスはアジャンへと移住した[10]。彼はアジャンで開業医として医療に携わる傍ら、博識のスカリジェから多くを学んだらしい。また、1531年にアジャンのアンリエット・ダンコスと結婚したことが、1990年代に発見された結婚契約書から窺える。この発見によって、従来謎だった最初の妻の名前も明らかになったが[11]、慎重な見方をする論者もいる [12]。実際のところ、この時期既にアジャンにいたのだとすれば、モンペリエで3年間研究して博士号を取得したとされた通説との間に、齟齬を来すことになる。

結婚契約書の真偽はなお検討の余地があるとしても、アジャン滞在中に最初の結婚をし、子供[13]をもうけたことは、確実視されている。しかし、1534年頃に妻子ともに亡くなったようである。この死因にはペストが有力視されているが、実態は全く不明である[14]。この後に妻の実家から持参金などをめぐって訴訟を起こされたという話もあるが、これも定かではない[15]

同じ頃には、元来気難しい性格であったスカリジェとの仲も険悪なものになっていった[16]。さらには、1538年春にトゥールーズの異端審問官から召喚を受けたようである[17]。この理由は「聖人を冒涜した」事を問題視されたという程度にしか分かっていない[18]。怠惰な姿勢でマリア像を作っていた職人に、不用意に投げかけた言葉が逆恨みを招いたからと説明されることもあるが、これはトルネ=シャヴィニーらが言い出した根拠のない話のようである[19]。このほか、アジャンのプロテスタント医師サラザンが召喚された際に、交流のあったノストラダムスにも累が及んだとする説もある[20]

ともあれこうした諸状況の悪化が、ノストラダムスに再度の遍歴を決心させたとされるが、上述の通り裏付けとなる史料に乏しく、詳細は不明である。ひとまず、妻子と死別したらしいこと、少なくともそれが一因となって旅に出たらしいことは確実視されている。実際、1530年代後半以降、彼の足取りは一時的に途絶える[21]

医師としての活動[編集]

長い放浪を続けたノストラダムスは、1544年マルセイユの医師ルイ・セールに師事したとされ[22]、翌年には3人の囚人の診察をした記録がある[23]

そして、1546年に同じ南仏の都市エクスペストが流行した時には、治療のために同市へ赴いた。伝説では、この時にノストラダムスは、鼠がペストを媒介することを見抜き、鼠退治を命じたという。また、アルコール消毒や熱湯消毒を先取りするかのように、酒や熱湯で住居や通りを清め、更にはキリスト教では忌避されていた火葬すらも指示したとされる。しかし、後年ノストラダムス自身が『化粧品とジャム論』で述懐しているこの時の様子に、当時の医学知識の範囲を超えるものはないため、殺菌消毒をはじめとする一連のエピソードは悉く創作であると思われる[24]。『化粧品とジャム論』には、その時に用いた治療薬の処方も載っているが、その効能は疑問視されている。結局のところ、彼の医療活動とペスト沈静化の因果関係は不明瞭なままである。現時点で確実に言えるのは、当時は医師達も尻込みする傾向の強かったペストの流行地に、果敢に乗り込んで治療に尽力した人物ということだけであり、その実効性を評価しうるだけの材料には乏しい。

その後、ノストラダムスはプロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス)に落ち着き、1547年11月11日にこの地で未亡人アンヌ・ポンサルドと再婚した。ノストラダムスは終生この街で過ごすことになるが、1年程度の旅行で家を空けることは何度かあった。最初の旅行は、再婚後間もなく行われたイタリア旅行であり、処方箋などからはヴェネツィアジェノヴァサヴォーナなどを回ったらしいことが窺える[25]

この旅行中の出来事としては、以下のような「伝説」が有名である。ノストラダムスはこの旅行中、ある修道士たちの一団に出会った時に、そのうちの一人の前で恭しくひざまずいた上で、その修道士が将来ローマ教皇となることを示唆したために、周囲の失笑を買ったという。しかし、その修道士フェリーチェ・ペレッティは、ノストラダムスの死から20年程のちにシクストゥス5世として即位し、予言の正しさが証明されたのだという。この出会いにも裏付けはなく、後世の創作と思われる。

予言者としての成功[編集]

1550年代に入ると、ノストラダムスはサロンの名士として、公共の泉の碑銘を起草したり、クラポンヌ運河の建設に出資したりするようになる[26]。こうした活動と並行して、翌年1年間を予言した暦書(アルマナック)の刊行を始めるなど、予言者としての著述活動も本格化させていく。暦書は大変評判になり、その成功に押されたのか、ノストラダムスは、より先の未来を視野に入れた著作『予言集』の執筆に着手する(ノストラダムスが『予言集』をどのような意図で出版したのかははっきりしていないが、この点を考える一助として、後段の予言の典拠も参照)。1555年5月に初版が出された『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』は、4巻の途中までしかない不完全なもの(完全版は全10巻)ではあったが、大きな反響を呼び起こしたとされる[27]

そのわずか2ヶ月ほど後に当たる1555年7月に、国王アンリ2世カトリーヌ・ド・メディシスからの招待を受けた。『予言集』の評判が王宮に届いたことが一因とされることが多いが[28]、暦書の評判に基づくものであって、『予言集』はそもそも関係がなかったという指摘もある[29]

翌月に王宮で行われた謁見は成功裏に終わったようだが、会見内容は不明である。カトリーヌはそれとは別に、ノストラダムスを個人的に呼んで子供たちの未来を占わせたとされ、四人の御子息はみな王になるという答えを得たという。四男エルキュールが早世したことでこれは外れたが、「御子息から四人の王が生まれる」という予言だったとする説もある。この場合、三男アンリはフランス王となる前にポーランド王となっていたため、正確な予言だったことになる。しかし、後にヴェネツィア大使ジョヴァンニ・ミキエリが1561年にまとめた報告書などでは、宮廷ではノストラダムスの「王子たちがみな王になる」という予言の噂が広まっていたとあり、「四人の王が生まれる」という予言は確認が取れていない[30]。この件に限らず、カトリーヌとの対話は色々取り沙汰されるが、後出の唯一の例外を除いては、対話の内容を伝える史料は存在していない。

1559年6月30日、アンリ2世の妹マルグリットと娘エリザベートがそれぞれ結婚することを祝う宴に際して行われた馬上槍試合で、アンリ2世は対戦相手のモンゴムリ伯の槍が右目に刺さって致命傷を負い、7月10日に没した。現代には、しばしばこれがノストラダムスの予言通りだったとして大いに話題になったとされるが、現在的中例として有名な詩が取り沙汰されたのは、実際には17世紀に入ってからのことであった[31]。ノストラダムスは、1556年1月13日付けで国王と王妃への献呈文をそれぞれ作成し、1557年向けの暦書に収録したが、このうちカトリーヌ宛ての献辞では、1559年を「世界的な平和 (la paix universelle)」の年と予言している。このため、果たして1559年の悲劇を見通していたかは疑問である(この予言は同じ年のカトー・カンブレジ条約になら当てはまる、とする指摘もある)。

晩年[編集]

アンリ2世亡き後に王位に就いたフランソワ2世は病弱で、早くも1560年後半の宮廷では、ノストラダムスの予言を引用しつつ、王が年内に没すると噂されていたという。実際にフランソワ2世はこの年のうちに没し、ノストラダムスの名声は更に高まったようである。このエピソードは、ヴェネツィア大使ミケーレ・スリャーノやトスカナ大使ニッコロ・トルナブオーニらの外交書簡にも記載があるので、史実だったと考えられる[32]

なお、この頃のノストラダムス本人は、王侯貴族などの有力者を相手に占星術師として相談に乗っていたことが、現存する往復書簡からは明らかになっている。事実、1564年に依頼に応じて作成した、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の子ルドルフホロスコープも現存している。ただし、その予言の的中度、信頼度という点では、必ずしも芳しい評価ばかりではなかったようである。もちろん、カトリーヌのようにノストラダムスに心酔していた人物はいた。彼女の場合、ノストラダムスを世界一の狡猾漢呼ばわりしているスペイン大使ドン・フランセス・デ・アルバの本国宛の書簡にも、その心酔ぶりを揶揄しているくだりを見いだすことができる[33]。しかし他方で、ノストラダムス自身の往復書簡の中では、顧客や出版業者から、予言の曖昧さや冗長さにしばしば苦情も出されていたことが明らかになっている[34]。なお、1559年の処方箋も現存しており、医師としての活動も継続していたことが窺える。

ときに、フランソワ2世の後を継いだ弟の国王シャルル9世は、フランス各地をまわる大巡幸の一環として、1564年10月17日に母后カトリーヌともどもサロンの街を訪れた。この時シャルルは、ノストラダムスに会うためだけに立ち寄った、と語ったという。カトリーヌがモンモランシー公に宛てた書簡で言及しているおかげで、この時の会見内容は例外的に伝わっている。それによればノストラダムスは、モンモランシー公が90歳まで生きること、そしてシャルルも同じだけ長生きすることを予言したという(前者は3年後に公が75歳で没したことで外れ、後者はシャルルが10年後に23歳で没したことで外れた)[35]。他方、ノストラダムスは、国王よりもむしろ随行していた少年に関心を示し、国王親子のいないところで、その少年がいずれフランスの王になると予言し、周囲を当惑させたというエピソードもある。この少年はナヴァル家のアンリで、のちにアンリ4世としてフランス王位に就くことになった。このエピソードはパリ市民ピエール・ド・レトワルの日記(1589年)に見出すことができ[36]、史実かどうかはともかく、当時の人々に知られたものであったようである。

さて、大巡幸中のシャルル9世は、その後アルルに逗留した折にノストラダムスを呼び出し、彼に「常任侍医兼顧問」の称号を下賜したようである[37]。なお、これは名誉上のものであり、ノストラダムスが宮廷に出仕したわけではない。また、彼が国王から何らかの称号を賜ったのは、これが唯一である。後にノストラダムスの伝記を書いた秘書のジャン=エメ・ド・シャヴィニーが「アンリ2世、フランソワ2世、シャルル9世の顧問兼医師」と誇張して紹介していたこともあり、あたかもノストラダムスが一定時期宮廷に出仕していたかの如くに書かれることもあるが、事実に反する。

その後のノストラダムスは、痛風もしくはリウマチと思われる症状に苦しめられていたようである。そして1566年6月には死期を悟ったのか、公証人を呼んで遺言書を作成した。7月1日夜には秘書シャヴィニーに「夜明けに生きている私を見ることはないだろう」と語ったとされる[38]。ノストラダムスは予兆詩で寝台と長椅子の間で死ぬことを予言しており、翌朝予言通りに寝台と長椅子の間で倒れているのが発見されたというエピソードが有名である。しかし、ノストラダムスの死と予兆詩を最初に結びつけたシャヴィニーは、寝台と長椅子の間で倒れていたなどとは述べておらず、ノストラダムスの死を発見した長男セザールもそのようなことは語っていないため、後代の創作であると考えられる[39]

著作[編集]

ノストラダムスは私信をラテン語で執筆しているので、当然ラテン語に通じていたはずだが、ドイツ語訳された瓦版を除けば著作は全てフランス語であり、ラテン語で執筆したものはない。

オルス・アポロ
ホラポロヒエログリフに関する著書を翻訳した1540年代の手稿。1967年に発見され、翌年公刊された。当時数多く作成されたホラポロの訳書の一つだが、韻文形式で訳すという他に例のない手法を取り入れているため、ホラポロの研究者からも注目されたことがある[40]
暦書
1550年向けから1567年向けまで、1551年向けを除き毎年刊行された翌年1年間を予測した著書。韜晦的な内容ではあったが、非常によく売れたようであり、占星術師ノストラダムスの存命中の名声は、主としてこの一連の著作によって確立された。
『3月10日の7時から8時の間にフランス・サロンの町で多くの人に目撃された恐るべき驚異の光景』(1554年)
1554年のこの日に見られた流星についてクロード・ド・タンド伯に報告した書簡(1554年3月19日付)をドイツ語訳したという瓦版。オリジナルのフランス語またはラテン語の書簡は未発見だが、真筆と見なされている。現存が確認できるノストラダムスの出版物としては最古だが、1556年頃の刊行と推測する者もいる。
化粧品とジャム論』(初版1555年)
医師・料理研究家としての著作。2部構成になっており、前半で様々な薬品類の処方を説明し、後半で菓子類のレシピを紹介している。後半はフランス人による最初のジャムの製法指南書とされる。第一部には恐らくは倫理上の問題から早々と削除された章があるものの、1572年までに少なくとも7版を数え、他にドイツ語訳版も3版刊行される人気作となった。
ミシェル・ノストラダムス師の予言集』(初版1555年)
3797年までの予言を収めたと称する、ノストラダムスの主著。現在「ノストラダムスの予言」として引用される詩句・散文は、基本的にこの著作のものである。本来は「百詩篇集」と呼ばれる四行詩と散文体の序文からなる著書であったが、17世紀に「予兆詩集」「六行詩集」が追加された。
『ガレノスの釈義』(初版1557年)
正確には『メノドトゥスによる人文科学研究ならびに医学研究への勧告に関するガレノスの釈義 Paraphrase de C. Galen, sur L'exhortation de Menodote, aux études des bonnes Arts, mêmement Médicine』。ガレノスの著書をフランス語で翻案したもの。これも医師としての著作と言えるが、内容的には、医学的というより哲学的であるとも指摘されている[41]
『王太后への書簡』(1566年)
王太后(国王の母后)、すなわちカトリーヌ・ド・メディシスに捧げられた1565年12月22日付の書簡。占星術師の立場からカトリーヌに助言を行うものとなっている。内容はわずか3ページであり、分量的には暦書類で有力者たちに捧げられていた献呈文と大差がない。
『プロヴァンスにおける宗教戦争初期の歴史』(執筆時期未詳)
現存しない草稿。シャヴィニーが言及しているほか[42]、ノストラダムス自身が私信の中でその要約版の手稿について言及している[43]

学術的な検証[編集]

ノストラダムスを大予言者と位置づける立場からの「ノストラダムス現象」の広まりに比べて、歴史学文学書誌学といった領域からの研究は長い間非常に限定的なものでしかなかった。しかし、20世紀半ば以降、主として英語文献と仏語文献では、専門的な研究も着実に蓄積されてきている[44]

ノストラダムス本人や先祖の伝記については、20世紀半ばにエドガール・ルロワやウジェーヌ・レーが古記録を丹念に調査し、実証度を飛躍的に高めた[45]。この結果、伝説的な要素はかなりの程度排除できるようになった。レーはノストラダムスの往復書簡についても抄録の形ながら紹介を行い、この面でも実証的な伝記の形成に貢献した[46]。また、ルロワも古文書での実証だけでなく、地元サン=レミの精神科医という利点を活かし、ノストラダムスの詩篇には、幼年期の記憶、すなわちサン=レミの景色や近隣のグラヌムの遺跡と一致するモチーフが存在することを初めて指摘した。

書誌研究の分野では、ミシェル・ショマラとロベール・ブナズラが、1989年と1990年に相次いで記念碑的な書誌研究を発表している[47]。前者の研究対象は18世紀までの文献ではあるが、フランス語文献に留まらず英語、イタリア語、ドイツ語、オランダ語などの文献も幅広く網羅した労作である。後者の研究は基本的にフランス語文献に限定されたものであるが、対象時期は1989年までと幅広く、また重要な文献については詳細な分析を付加している点にも意義がある。

『予言集』の原文校訂および分析に関しては、多少粗い形とはいえ包括的な分析を行ったエドガー・レオニの先駆的研究(1961年)[48]のほか、『予言集』初版収録分を主たる対象とするものであるが、ピエール・ブランダムール(1993年、1996年)、アンナ・カールステット(2005年)などの研究がある[49]。ブランダムールは、予言詩のモチーフに、ルーサや『ミラビリス・リベル』といった同時代の予言的言説や様々な西洋古典からの借用が含まれていることを指摘したほか、同時代の事件や風聞に題材を採ったと思われる詩があることを示すなど[50]、16世紀フランス史の文脈から手堅い研究を展開した(後述)。他方、カールステットは、モチーフの分析もさることながら、モーリス・セーヴら同時代の詩人との文体の比較を丁寧に行うことで、内容分析に比べて十分な蓄積がなされてこなかった文体論研究の分野にも貢献している。

予言の典拠[編集]

ここでは、彼が『予言集』、暦書類、顧客への私信などで予言を行う際に、何に基づいていたのかを、現在までの研究で明らかになっている範囲で扱う。なお、暦書類や私信よりも『予言集』の方が研究の蓄積が大きいため、例示は『予言集』のものが多くなる。この点については有名な予言詩の例も参照のこと。

占星術について[編集]

ノストラダムスは、『予言集』や暦書類での予言の基礎を、判断占星術(Astrologie judiciaire, 予期される未来の発展の「質」の占星術的な評価)に置いている、と主張していた[51]。 しかし、彼の占星術は、ローラン・ヴィデルのような同時代の占星術師からは、彼の星位図作成上の問題(後述)や、過去の星位と未来のそれを比較することで未来を予言しうると仮定していることなどを、強く批判された。

また、彼の占星術のオリジナリティには疑問が呈されている。少なくとも、リシャール・ルーサの『諸時代の状態と変転の書』(1550年)が主要な参照元であったことは確実である。これは、同書からほとんどそのまま引用している箇所が少なくないことからも明らかである。さらに、彼が顧客向けに手ずから作成したホロスコープ(出生星位図)にしても、既に公刊されていた他の占星術師の星位図を下敷きにしたものであり、自身で星位の計算を行っていたわけではないようである。このため、オリジナルからの誤写も指摘されている。

なお、文献の性質上、暦書については星位やその影響に関する叙述が多いものの、『予言集』では、占星術的な言及はそれほど多くない。「第二序文」では相対的に記述量が多いが、「第一序文」では12回、940篇以上の四行詩から成る「百詩篇集」自体でも41回言及されているに過ぎない。

歴史関連の参考文献[編集]

実証的な研究の蓄積は、『予言集』や暦書類といった彼の予言作品が、古代の終末論預言(主たる基盤は聖書)を敷衍したものであると示唆している。彼は、これに、前兆に関する記録や過去の歴史的事件などを加味した上で、星位の比較も一助として、未来を投影したのである。

例えば、彼の予言には「空での戦闘」や「太陽が2つ現れる」といった記述がある。信奉者は、それらを現代ないし近未来の戦争や核爆発の描写と解釈するが、こうした現象は、当時の「驚異」(prodige) としてはありふれた言説であった(当時の人々がそれらをありうる、または実際に見聞したと認識していたことと、実際にそれらが起こったかは当然別問題である)。当時の人々はそうした「驚異」を何らかの変事の前兆と捉えていたのであり、ノストラダムスの予言には、当時の風聞やユリウス・オブセクエンスの『驚異の書』に基づく形で、そうした「驚異」が多く反映されている。

また、彼の予言に反映されている歴史的題材の分かりやすい例としては、スッラマリウスネロハンニバルといった古代の人名が織り込まれている詩や散文の存在を挙げることができる。こうした歴史関係の叙述にあたっては、ティトゥス・リウィウススエトニウスプルタルコスら古代の歴史家たち、及びヴィルアルドゥアンフロワサールら中世の年代記作家たちの作品が参照されている。このことは、それらからの引用句を容易に同定できることから明らかである。

予言関連の参考文献[編集]

ノストラダムスの予言は、独自に組み上げられたものだけではなく、先行する予言関連の著書からの借用も含まれていることが指摘されている。そうした彼の予言的な参考文献の中で最も重要なものは、疑いなく『ミラビリス・リベル』(1522年に出された編者不明の予言集)である。同書にはジロラモ・サヴォナローラの『天啓大要』の抜粋が含まれており、『予言集』第一序文には、そこからの引用が少なくない。[52]

『ミラビリス・リベル』は1520年代に6版を重ねたが、その影響は持続しなかった。一因としては、ラテン語で書かれた第一部の分量が多く、かつ読み辛い古書体で印刷されていたことや、難解な省略が多かったことなどが挙げられる。ノストラダムスは、この書を最初にフランス語で敷衍した一人と言える[53]

さらに異なる引用元として、クリニトゥスの『栄えある学識について』を挙げることができる。ここには、ミカエル・プセルロスの『悪魔論』や、4世紀の新プラトン主義ヤンブリコスカルデアアッシリア魔術について纏めた『エジプト秘儀論』からの抜粋を含んでいる。「百詩篇集」の最初の2篇は、それらの翻案である[54]

なお、彼の引用や借用については、当時と現在とで著作権の概念が異なる点に留意する必要がある。当時は謝辞や断り書きなしに、他の著者の作品からの借用を行うことは珍しくなかったのである。

他の参考文献[編集]

ノストラダムスは、第一序文で、自身の神秘学系の蔵書を焼却したと語っている。これが事実だとしても、火にくべられた書物が何であったかは特定されていない。とはいえ、彼の蔵書の追跡調査も、1980年代以降行われており、その結果、彼の蔵書には、スコットランド神学者ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスイスラム世界の占星術師アルカビティウスパドヴァ大学の医学者コンファロニエリらの著書や、トマス・モアの『ユートピア』が含まれていたことが明らかになっている。[55]

こうした出典の研究が進んだことで、かつて言われていたように、ノストラダムスが予言の際に何らかの魔術的な儀式を行ったり、トランス状態に陥ったりしたかどうかは疑問視されている。「百詩篇集」の最初の2篇には儀式的なことが書かれているが、既に見たように、これは他の文献からの翻案であり、本人の行動と一致するとは限らない。また、顧客向けの私信に儀式を行ったように書いているものもあるが、神秘化の一環として誇張している可能性もある。

他方で、これをもって彼の詩が「予言詩」(「預言詩」)でない、と言い切ることには慎重さが求められる。当時の詩人にとって「詩を作ること」と「預言をすること」とが近しいものと捉えられていた点には、留意が必要だからである[56]。そして、カールステットはまさにこの点において、ノストラダムスがプレイヤード派に影響を及ぼした可能性をも示唆している[57]

関連年表[編集]

以下では、裏付けの取れるものを中心にとりあげた。

ノストラダムスの存命中の関連年表[編集]

  • 1503年12月14日(木曜日) - 誕生。
  • 1518年頃? - アヴィニョン大学で自由七科を学んだとされる
  • 1520年 - 学業を中断したと推測されている。
  • 1521年 - 各地を遍歴し、薬草の採取や関連する知識の収集につとめる(- 1529年)
  • 1529年10月23日 - モンペリエ大学医学部に入学
  • 1531年 - アジャンでアンリエット・ダンコス(Henriette d'Encosse)と最初の結婚。
  • 1530年代後半? - 最初の妻と子どもをペストで失う。以降放浪したとされる。
  • 1545年前後? - 手稿『オルス・アポロ』を執筆。
  • 1546年 - エクス=アン=プロヴァンスでペストの治療に当たる。
  • 1547年 – サロン・ド・クローに転居。以降、定住。
  • 1547年11月11日 - アンヌ・ポンサルド(Anne Ponsarde)と再婚。
  • 1549年頃 - 1550年向けの暦書類を刊行する。以降、1551年向けを除き、1567年向けまで毎年刊行される。この一連の刊行物の中で初めて「ノストラダムス」の名を用いたとされる。
  • 1551年頃 - 長女マドレーヌ誕生。
  • 1553年11月 - 翌年向けの暦書類について粗雑な版を組んだ業者とトラブルになる[58]
  • 1553年12月18日 - 長男セザール誕生。
  • 1554年 - 『3月10日の7時から8時の間にフランス・サロンの町で多くの人に目撃された恐るべき驚異の光景』がニュルンベルクで出版される。
  • 1555年 - 『化粧品とジャム論』の初版を刊行する。
  • 1555年5月4日『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』の初版を刊行する。
  • 1555年8月 - 国王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスに謁見。
  • 1556年頃 - 次男シャルル誕生。
  • 1556年 - アントワーヌ・クイヤールが『ル・パヴィヨン・レ・ロリ殿の予言集』を刊行する。これは『予言集』のパロディであり、最初の風刺文書である。
  • 1557年 - 『ガレノスの釈義』初版を刊行する(翌年には再版される)
  • 1557年9月6日 - 『予言集』の増補版を刊行する。
  • 1557年11月3日 - 三男アンドレ誕生。
  • 1557年11月3日 - 『予言集』増補版の粗雑なコピーが刊行される。
  • 1557年頃 - イタリア語訳版の暦書が刊行される。初のイタリア語訳版。
  • 1557年 - 『ノストラダムスに対するエルキュール・ル・フランソワ殿の最初の反論』が刊行される。この頃からノストラダムスを非難する文書が複数刊行される。
  • 1558年 - 『予言集』の完全版が出されたという説もある。
ファイル:Laurent Videl.PNG
ノストラダムスへの批判書の一つ(1558年)
  • 1558年 - 『エルキュール・ル・フランソワ殿の最初の反論』が再版される(タイトルが「モンストラダムスに対する」になる)。同じ年にジャン・ド・ラ・ダグニエール、ローラン・ヴィデルらも中傷文書を刊行した。
  • 1559年 - 英訳版の暦書類が刊行される。初の英訳版。
  • 1559年7月10日 - アンリ2世が没する。ノストラダムスはこれを予言していたとされるが、彼の生前に喧伝されていた詩(百詩篇第三巻55番)は、現在結び付けられている詩(百詩篇第一巻35番)とは別の詩である。
  • 1559年12月15日 - 次女アンヌ誕生。
  • 1560年 - ロンサールが『ギヨーム・デ・ゾーテルへのエレジー』においてノストラダムスの名を詩に織り込む。
  • 1561年 - 夏ごろ、ジャン・ド・シュヴィニー(のちのジャン=エメ・ド・シャヴィニー)を秘書として雇う。
  • 1561年 – 三女ディアーヌ誕生。
  • 1561年頃 - パリで『予言集』の海賊版が刊行される。この版を刊行した業者バルブ・ルニョーは、前後する時期に、暦書の偽版2種類と海賊版と思しき版1種類も刊行している。
  • 1563年頃 - この頃から「ミシェル・・ノストラダムス Michel de Nostrdamus, Mi. de Nostradamus」と名乗る偽者が著作を発表し始める
  • 1564年10月17日 - フランス全土を巡幸していた国王シャルル9世と母后カトリーヌ・ド・メディシスがサロンを訪れ、ノストラダムスと会見。ノストラダムスはアルルで、「常任侍医兼顧問 Conseiller et Medecin ordinaire au Roy」の称号を受けたとされる。
  • 1566年 - 『王太后への書簡』を刊行する。
  • 1566年 - オランダ語訳版の暦書が刊行される。初の、そして唯一のオランダ語訳版。
  • 1566年6月17日 - 公証人を呼んで遺言書を口述(6月30日に追補)。
  • 1566年7月1日 - 秘書シュヴィニー(シャヴィニー)がノストラダムスの就寝前に最期の言葉を交わしたとされる。
  • 1566年7月2日未明 - 長男セザールによってノストラダムスの死が確認される。

没後の関連年表[編集]

  • 1568年 - 現存最古の『予言集』完全版が刊行される。
  • 1570年頃 - この頃から偽者アントワーヌ・クレスパン・ノストラダムスが著作を発表し始める。
  • 1572年 - ドイツ語訳版の『化粧品とジャム論』が刊行される。この版は1573年と1589年にも再版された。
  • 1589年 - シャヴィニーが手稿『ミシェル・ド・ノートルダム師の散文体の予兆集成』を作成。これにより、暦書類の内容がかなりの程度保存された。
  • 1590年 - アントウェルペンで『予言集』が出版される。フランス以外で刊行された初めての版(対訳等はなし)。
  • 1594年 - シャヴィニーが『フランスのヤヌスの第一の顔』を出版する。これは、ノストラダムス予言の最初の解釈本に当たる。また、冒頭の伝記は最初の伝記といえるが、誤りが少なくない。
  • 1605年 - 1605年版『予言集』が刊行される。「予兆集」「六行詩集」が初めて組み込まれた版。
  • 1614年 - 長男セザールが『プロヴァンスの歴史と年代記』を出版する。父ノストラダムスにも言及しており伝記的証言として重要だが、明らかな粉飾も含む。
  • 1649年頃 - フロンドの乱の影響で、ジュール・マザランを貶めるための偽の詩篇を加えた偽「1568年リヨン版」『予言集』が刊行される。この時期は、ノストラダムスを主題とするマザリナードも多く刊行された。
  • 1672年 - テオフィル・ド・ガランシエールによる英訳と解釈が収録された『予言集』が出版される。初の翻訳された版。
  • 1789年 - フランス革命が始まる。それから10年ほどの間に10種以上の『予言集』の版と夥しい数の関連パンフレットが刊行された。なお、『予言集』の中には10篇ほどの詩を偽の詩に差し替えた版もあった。
  • 1791年 - ノストラダムスの墓が荒らされる。その後、遺体はサロン市のサン=ローラン教会の聖処女礼拝堂に安置し直された。
  • 1813年7月 - 新たな墓所に墓銘碑が飾られる。現存する墓銘碑はこの時のものである。
  • 1939年 - 第二次世界大戦。ナチスは自陣営に都合のよい解釈を載せたパンフレットを各国語に訳して配布した。また、フランス占領時に、いくつかの解釈書を発禁処分にしたという[59]。このほか、特にアメリカでは、ノストラダムス関連書の刊行点数が増えた。
  • 1966年12月 - パリのオークションに『1562年向けの暦書』の異本の手稿が現れる(暦書類で存在が知られている唯一の手稿)。現在の所有者は未詳である。
  • 1967年 - フランス国立図書館で手稿『オルス・アポロ』が発見される。
  • 1973年11月 - 五島勉の『ノストラダムスの大予言』が刊行される。刊行から3か月余りで公称100万部を突破するベストセラーとなり、日本における最初のノストラダムスブームが起きる。
  • 1980年 - フランスでジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌが『歴史家にして予言者ノストラダムス』を刊行する。フランスでベストセラーになり、他国語版も相次いで出版された(ほとんど話題にならなかったものの、日本語版も存在した)。
  • 1982年 - ウィーンのオーストリア国立図書館で『予言集』初版が発見される。初版本は1931年6月17日のオークションで現れたのを最後に所在不明となっていた。
  • 1983年 - アルビ市立図書館でも『予言集』初版が発見される。
  • 1983年 - フランスでノストラダムス協会が創設される。
  • 1991年 - 日本では湾岸戦争にあわせ、ノストラダムス関連書が急増し、その年のベストセラーランキングに登場するものも出た。
  • 1992年 - サロン市にノストラダムス記念館 (la Musée de "La Maison de Nostradamus") が開設される。これは、彼が晩年を過ごした家を改築したものである。設立当初は私設だったが、1997年からは公立博物館となっている。
  • 1996年 - オランダのユトレヒト大学図書館で1557年版の『予言集』が確認される(2006年現在で現存はこの一例のみである)。
  • 1999年 - 日本ではノストラダムス関連書が急増し、関連商品なども(単なるジョークも含め)多く発売された。ただし、1999年を境に日本のノストラダムス関連書はほぼゼロと言ってよい水準に落ち込む(2001年を除く)。これは、アメリカ、フランス、ドイツなどと比べて落差が最も顕著である。
  • 2001年 - アメリカ同時多発テロ事件。アメリカ、フランス、日本などでこれに便乗した解釈本が何冊も出された。また、インターネット上でノストラダムスの詩と称する偽物が出回った。
  • 2003年 - ノストラダムスの生誕500周年。サロン=ド=プロヴァンスでは記念の展覧会が開催された。これに合わせて、サロン市の市長が序文を寄せる形でカタログが出版された。

名前の表記について[編集]

ミシェル・ド・ノートルダムが本格的な著述活動に入るのは1550年頃からであり、ミシェル・ノストラダムスというラテン語風の表記をまじえた筆名を用いるのはこの頃以降のことであったとみなされている。公刊されたものとして現在確認できる最古のものは、1555年向けの暦書の表紙に書かれているものである(公刊されたものに限らなければ、現存最古は手稿『オルス・アポロ』に書かれた署名である)。

日本語文献の中には学生時代から用いていたとするものもあるが、史料的に裏付けることができない[60]。学生時代の自署としては、モンペリエ大学入学時の入学宣誓書が現存するが、そこでは、ミカレトゥス・デ・ノストラ・ドミナ (Michaletus de Nostra Domina) という正式なラテン語表記が採られている(ただし、このミカレトゥスは、ミシェルを愛称化した上でラテン語表記したものである)。

また、日本では、ミ(ッ)シェル・ド・ノストラダムスという表記もしばしば見られるが、「ノストラダムス」の前に「ド」を付けるこのような表記は、ノストラダムス本人の著作には見られない。本来これは、同時代の偽者の一人であるノストラダムス2世が用いたものであった。ゆえに、不正確な表記ではあるのだが、同時代人にとっても紛らわしいものであったらしく、ノストラダムスの実弟ジャンの著書(1575年)や秘書シャヴィニーの著書(1596年)でも、「ミシェル・ド・ノストラダムス」と書かれてしまっている(この種の誤用の現在確認できる最古のものは、1556年10月14日付で暦書に与えられた特認の文面である)。

信仰について[編集]

ノストラダムスはユダヤ人とされることもあるが、上記の通り、父方の祖父の代に改宗が行われている。父方の祖母ブランシュもキリスト教徒である(三婚に先立って祖父が二人目の妻と離婚したのは、彼女が改宗を拒絶したからだという)[61]

母方については未解明の部分も多いが、曾祖父はキリスト教徒であったことが明らかになっている。母レニエールもキリスト教徒であったと推測されているので[62]、ノストラダムスはユダヤ人の定義には当てはまらない。

一部には、彼の一族は表向きキリスト教徒であったにすぎず、ユダヤ教の信仰を捨てていなかったとする者もいるが、史料的裏付けはなく、彼の一族がユダヤ教の秘儀に通暁していたといった類の話も俗説である。

ノストラダムス本人は、公刊された文献等ではカトリック信徒の姿勢を示しており、『1562年向けの暦』もピウス4世に捧げていた。他方で、私信の中ではプロテスタントに好意的な姿勢を示していたことが明らかになっており、彼の信仰の姿勢について安易な断定が出来る状況にはない[63]

かつて渡辺一夫は、ノストラダムスのキリスト教信仰が、正統や異端に拘泥しない「超異端」の立場であった可能性を示唆していた[64]

脚注[編集]

  1. ノストラダムス本人は、「占星術師」(Astrologue) ではなく「愛星家」(Astrophile) という肩書きを名乗ることが度々あった。
  2. 以上、出自に関しては主にLeroy [1941], Lhez [1968] に拠っている。
  3. この点は、墓銘碑と私信(12月12日を誕生日の2日前と語っている私信がある)などが裏付けになっている。出生そのものや洗礼の記録は確認されていない。なお、2006年になって、墓銘碑の再検討などから正しい誕生日を12月21日とする説が登場した ([1])。
  4. 曾祖父は地元の名士であるがゆえに記録に頻出するが、1504年を境に記録から完全に消えているため、この年に没したと推測されている (cf. Leroy[1960])。
  5. ラメジャラー[1998] pp.36-37, Wilson [2003] p.21 etc.
  6. Leroy[1993] p.57 etc.
  7. Nostradamus[1555]p.3
  8. Chavigny[1594] p.2, Lhez[1961] p.140
  9. cf. Wilson[2003]p.22, Marcel Gouron, Matricule de l'université de médecine de Montpellier (1503 - 1599), Droz, 1957, p.58. この点、はっきりと大学から除籍されたと位置づける者もいる (Bracops [2000] p. 151)。
  10. 実際、本人は、トゥールーズボルドーカルカソンヌのほか、アジャン周辺にいたことがあると後年語り、スカリジェのことも高く評価している (Nostradamus[1555]p.218-219)。
  11. 竹下[1997]pp.70-71。妻の名前をアドリエット・ド・ルーブジャックと紹介している文献もあるが、これはスカリジェの妻アンディエット・ド・ラ・ロック・ルーブジャック(オーディエット・ラ・ロック・ローベジャック)と混同された誤伝のようである。
  12. ex. Wilson[2003] p.59
  13. シャヴィニーの伝記では、子どもは男児と女児が1人ずつとされている (Chavigny [1594] p.2)。しかし、これも実証されておらず、はっきりしたことは分かっていない。
  14. ノストラダムスの最初の結婚について語っている同時代の証言はシャヴィニーの伝記しかないが、彼は死因について何も語っていない。これに関する実証と伝説の開きについては Wilson [2003] pp.58-59 なども参照のこと。
  15. Leroy [1993] p.61
  16. これを伝える最古の記録は17世紀の歴史書だが (Leroy [1993] p.61, Schlosser [1985] pp.85-86)、スカリジェの遺作となった詩集にノストラダムスを悪罵する詩が複数収録されていることも傍証になる (Brind'Amour [1993] pp.85-86)。
  17. 19世紀にまとめられたアジャンの古文書集に書かれているようである (cf. Lhez[1961] p.135)。
  18. Lhez,ibid., Brind'Amour [1993] p.118
  19. Leroy [1993] p.61, LeVert [1979] pp.4-5
  20. Pierre Gayrard, Un dragon provençal, Actes Sud, 2001, p.180 ; 類似の見解として Boulanger [1943]pp.54-55, LeVert [1979] p.5
  21. 例外的に、1539年にボルドーの薬剤師レオナール・バンドンの薬局を訪れたと、後にノストラダムス自身が語っている (Nostrdamus [1555] p.110)。これについては、信憑性を疑問視する見解 (Leroy [1993]p.62-63) と、特に問題視しない見解とがある (Brind'Amour [1993] p.118)。
  22. Leroy [1993] p.66, Wilson [2003] p.62
  23. ブーシュ=デュ=ローヌ県立古文書館の展覧会のカタログ (Archives. Trésors et richesses des Archives des Bouches-du-Rhône, Marseilles, 1996) に、この記録の写真が載っているという (Laroche [1999], p.95)。
  24. Nostradamus [1555] pp.48-54, ラメジャラー [1998] pp.93-98, ランディ [1999] pp.116-122, 伊藤和行 [2000] pp.245-250, 山本 [2000] pp.83-84
  25. Leroy [1993] p.70, Wilson [2003] pp.69-70
  26. Leroy [1993] pp.78-79
  27. Nostredame [1614] p.776, Parker [1923] p.101, Leoni [1982] p.26, Bracop [2000] p.152
  28. これを最初に述べたのはシャヴィニーである (Chavigny[1594] p.3)。ただし、シャヴィニーは召喚を1556年7月のこととしており、この時期の状況を正確に把握できていたかは定かではない。
  29. Brind'Amour[1993] p.24
  30. cf. Brind’Amour [1993] p.41
  31. 高田[2000]pp.292-296、山本[2000]pp.240-244
  32. Leoni [1982] pp.30-31, Brind'Amour [1993] pp.39-40 etc.ただし、それらは18世紀から19世紀に再編集されたものであるため、信憑性を疑問視する者もいる
  33. Leoni [1982] pp.34-35, Brind'Amour [1993] pp.51-53
  34. ex. ランディ[1999]p.79, p.145
  35. 以上の大巡幸の様子についてはLeroy [1993] pp.97-100, Brind'Amour [1993] pp.48-50 などによる。
  36. Pierre de L'Estoile, Mémoires journaux 1574-1611, t.5, 1878, pp.245-247; Parker [1923] p.104 etc. レトワルの日記は生前公刊されることがなく、版によって異同があるが、ここで問題になっている記述は1719年版で付け加えられたものである。
  37. この時期は確定できていないが、息子セザールの証言通りアルルでのことだったのなら、1564年11月16日から12月17日の間だったことになる(cf. E. Graham & W. Mc Allister Johnson, The royal tour of France by Charles IX and Catherine de Medici, University of Toronto Press, 1979, p.97)。
  38. Chavigny[1594] p.4
  39. Chavigny[1594] p.154, Nostredame[1614] pp.803-804
  40. Claude-Françoise Brunon, "Lecture d'une lecture : Nostradamus et Horapollon", La littérature de la Renaissance, Genève ; Slatkine, 1984
  41. Allemand [2000]
  42. Leroy [1993]pp.146-147
  43. Dupèbe [1983]pp.132,135
  44. 英仏語以外でも、数は少ないが、優れた研究として評価されているものはある。例としてElmar Gruber[2003], Nostradamus: sein Leben, sein Werk und die wahre Bedeutung seiner Prophezeiungen, Scherzなど。
  45. Edgar Leroy[1941], Edgar Leroy[1993] ; Eugène Lhez[1968]
  46. E. Lhez[1961]. レーの紹介は、重要な書簡の全訳と他の書簡の要約から成っていたが、後にジャン・デュペーブが全ての書簡の紹介と分析を行っている。cf. Jean Dupèbe[1983]
  47. Michel Chomarat[1989] ; Robert Benazra[1990]
  48. Edgar Leoni[1961/1982]
  49. Pierre Brind'Amour[1993] [1996] ; Anna Carlstedt[2005]
  50. ノストラダムスの予言の中に、『予言集』刊行当時から見て、過去に属する事柄が含まれている、とする指摘自体は、18世紀には出されていた(1724年の『メルキュール・ド・フランス』紙に2度に渡り掲載された匿名の書簡で、こうした視角からの分析が行われている)。
  51. 日本では、ノストラダムスがラテン語の詩で占星術師を批判していることなどを以て、彼は占星術全般に否定的だったと主張する者がいる。しかし、第一序文では、判定占星術とその他の占星術を区別した上で前者を評価しているため、日本以外では、立場に関わらずそうした主張は殆ど見られない。
  52. ちなみに、第一序文には、聖書からの引用句が24あるが、2つを除いてサヴォナローラの引用と重複している。
  53. 『予言集』と『ミラビリス・リベル』との対照については、Lemesurier[2003]が参考になる。
  54. かつてはマルシリオ・フィチーノ訳の『エジプト秘儀論』などから直接借用したとされていたが、現在では否定されている(Brind'Amour [1996] pp.48-49, n.5 etc.)。
  55. いずれもミシェル・ショマラによる。彼はノストラダムス自身の署名がある現存する文献や、息子セザールの私信を基に、ノストラダムスの蔵書12点を特定している(うち推測が4点)。本文で例示したものは、いずれも署名つきで現存する文献。cf. Michel Chomarat, "La Bibliothèque de Michel Nostradamus" in Laroche[2003]
  56. 高田・伊藤 [1999] pp.342-352, ドレヴィヨン・ラグランジュ [2004] pp.39-43, Petey-Girard [2003] pp.7-8
  57. Carlstedt [2005] ch.7
  58. Leroy [1993]p.148
  59. Laroche [2003] p.99 & p.105, ドレヴィヨン・ラグランジュ [2004] p.88
  60. 一応、『1525年にエクス=アン=プロヴァンスで出版されたミシェル・ノストラダムスの四行詩』と題する17世紀末頃の瓦版は現存するが、このオリジナルが1525年に刊行されたと見なせる史料的裏付けはない。
  61. Leroy [1941] pp.13-18, Lhez [1968] p.404
  62. Leroy [1941] p.32
  63. cf. ランディ[1999]pp.109-111, 高田・伊藤[1999]pp.22-24
  64. 渡辺[1992]p.140

関連項目[編集]

参考文献[編集]

より詳しく知るための文献、および本記事作成にあたり参照された文献。ノストラダムスを主題としていない文献は、注記の中で書名も表示してある。以下のうち、Nostradamus[1555], Chavigny[1594], Nostredame[1614] はガリカデジタル図書館フランス国立図書館)で見ることができる。

  • ピエール・ブランダムール校訂、高田勇 伊藤進 編訳 [1999]『ノストラダムス予言集』 ISBN 4000018086
  • 樺山紘一 村上陽一郎 高田勇 共編 [2000] 『ノストラダムスとルネサンス』 ISBN 4000018094
    • 伊藤和行 [2000]「ノストラダムスと医学のルネサンス」
    • 高田勇 [2000]「ノストラダムス物語の生成」
  • 竹下節子 [1997]『ノストラダムスの生涯』 ISBN 4022572213
  • 山本弘 [2000]『トンデモ大予言の後始末』 ISBN 4896914694
  • 渡辺一夫 [1992]『フランス・ルネサンスの人々』岩波書店
  • エルヴェ・ドレヴィヨン、 ピエール・ラグランジュ [2004]『ノストラダムス―予言の真実』 ISBN 4422211781
    • 伊藤進 [2004] 「人文主義者ノストラダムス」(上掲書 pp.102 - 107。日本語版監修者による解説)
  • ジェイムズ・ランディ [1999]『ノストラダムスの大誤解―イカサマまみれの伝説43の真相』 ISBN 4872334590
  • ピーター・ラメジャラー [1998]『ノストラダムス百科全書』東洋書林
  • Robert Benazra [1990], Répertoire chronologique nostradamique(1545-1989), Guy Tredaniel
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  • Martine Bracops (éd.) [2000], Nostradamus Traducteur traduit. (Actes du colloque international de traductologie, Bruxelles, 14 décembre 1999), Hazard
    • Jacqueline Allemand, "D'Horapollon à Galien : Nostradamus médecin, philosophe et traducteur", in Bracops (éd.) [2000] pp.35 - 64
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  • Pierre Brind'Amour [1993], Nostradamus Astrophile, Klincksieck
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  • Eugène Lhez [1961], "Aperçu d'un fragment de la correspondance de Michel de Nostredame", Provence Historique, T.11
  • Eugène Lhez [1968], "L'ascendance paternelle de Michel de Nostredame", Provence Historique, T.18
  • Michel Nostradamus [1555], Excellent & Moult Utile Opuscule à tous necessaire..., Antoine Volant.
  • César de Nostredame [1614], L’Histoire et Chronique de Provence, Simon Rigaud
  • Eugen Parker [1923], "La légende de Nostradamus et sa vie réelle", Revue du Seizième Siècle, tome X, pp.93-106, 148-158
  • Bruno Petey-Girard [2003], Nostradamus: Les Prophéties, Flammarion
  • Louis Schlosser [1985], La vie de Nostradamus, Pierre Belfond
  • Ian Wilson [2002/2003], Nostradamus The Evidence, Orion

外部リンク[編集]

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