佐久間盛政

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佐久間盛政像

佐久間 盛政(さくま もりまさ)

天文23年(1554年)、 尾張国御器所(現名古屋市昭和区御器所)に生まれた。 「身長六尺」(約182センチメートル)とあり、数値の真偽は別としてかなりの巨漢であったことが窺える。織田家臣・柴田勝家の甥。玄蕃允を自称した。 盛政は各地の戦に参加して功績を挙げ、その勇猛さから鬼玄蕃と呼ばれた。 叔父の柴田勝家が越前の国主になると、盛政は寄騎として柴田勝家を支えた。 その後は加賀一向一揆や上杉家との戦いで活躍し、信長から加賀の統治を任された。

出自[編集]

織田家臣・佐久間盛次の長男。母は柴田勝家の姉だが、異説もある。 弟に柴田勝政(※勝安)、保田安政、佐々勝之がいる。 妻は佐久間盛重の娘。 佐久間家は相模国の三浦家を祖とする鎌倉以来の名門武家。 尾張の佐久間家は尾張・三河国境周辺に所領を有し、熱田神宮と結びつきを強めて伊勢湾の流通にも関わっていた可能性が指摘されており、その利害関係から織田家に仕えて今川家や三河の国人衆と激しく争った。 また織田信長の尾張統一戦では一貫して信長に味方したので、信長から厚い信頼を寄せられた。 織田家重臣の佐久間信盛(父盛次の従兄弟)や、桶狭間の戦いで玉砕した佐久間盛重(叔父、舅)らを輩出した。

ちなみに柴田家は婚姻や養子縁組を通じて佐久間家との関係を積極的に強化していたようである。 佐久間の名字を持つ武将が多数、柴田家の家臣や寄騎として記録に残っており、また盛政の寄騎や家臣には柴田家の家臣だった人物もいた。 軍事作戦でも両家の将兵は行動を共にすることが多かった。 主君の信頼厚い名門の家に生まれた盛政は、武人としての誇りと、身の丈六尺=180cm以上という巨躯を備えていた。赤ら顔で頬髭豊かな豪傑らしい容貌だったとされる。

※柴田勝政は初め勝安と名乗っていた。ただし別人説もあり、その場合は両者の事跡を区別する必要がある。

初陣~元亀年間の活動[編集]

1568年、織田信長は将軍候補・足利義昭を奉じて上洛作戦を開始。 盛政は父に従い近江箕作城攻めで武功を挙げて初陣を飾った。 1570年4月の越前攻めでは若年ながら兵を率いて手筒山城攻めで活躍。 それ以前に父盛次は死去したか隠居して盛政が跡を継いだと考えられている。 同年6月、織田軍の主力が美濃へ引き揚げた隙に、南近江で六角家が蜂起。 柴田勝家と佐久間信盛は出陣して野州河原で六角軍に決戦を挑んだ。 盛政は、この戦いが初陣となった弟・安政と共に先駆けて敵陣へ攻め込み、大活躍した。 当時の盛政は、近江南部の国人衆を率いた柴田勝家の与力だったとされる。 一方、河内畠山家臣・保田家の養子になっていた安政は同年8月、三好家との合戦にも参加して一番槍の手柄を立てた。 1571年の比叡山攻めでは、盛政の弟で柴田勝家の養子になっていた柴田勝政が初陣で参戦。 1572年4月、織田家から離反した三好義継と松永久秀が河内国で畠山昭高を攻撃。 佐久間信盛は織田軍を率いて救援に向かい、保田安政も参戦した。 佐久間信盛と保田安政は同年11月の三方ヶ原の合戦にも参戦した。 1573年、将軍足利義昭が挙兵して織田家と対決した槇島合戦が始まった。 盛政は柴田勝家に従い参戦して柴田勝政と先陣争いをした。 同じく保田安政は佐久間信盛・信勝父子に従い、真先に川を渡って佐久間勢を先導した。 さらに敗北した足利義昭を匿った三好義継を佐久間信盛が攻撃。 保田安政は佐久間信盛に従い河内国若江城へ攻め込み、三好義継を自害に追い込んだ。 元亀年間は信長が朝倉・浅井・六角・三好・武田・延暦寺・本願寺・将軍家と敵対して存亡の危機に立たされた時期であり、窮地の中で獅子奮迅の働きをした佐久間兄弟を信長は激賞した。

天正元年~一向一揆との戦い[編集]

信長包囲網が消滅した後も、織田家と佐久間兄弟の苦難は続いた。 1574年1月、越前一向一揆が挙兵。 隣国加賀から援軍を得た一向一揆は越前の織田軍を駆逐し、5月までには越前のほぼ全域を掌握した。 続いて3月には甲斐の武田勝頼が美濃へ侵攻。織田家は武田軍への対策に追われて越前を奪還できなかった。 同年4月、畿内の反織田勢力と阿波・讃岐の三好党が結集して攝津・和泉・河内で織田方の城を攻撃。 河内では前年、保田安政の主君だった守護の畠山昭高(信長派)が守護代・遊佐信教(将軍派)に謀殺されていた。 保田家は信長に救援を求め、佐久間信盛が派遣された。 保田安政は佐久間勢の先鋒として高屋城攻めに参加。この時は織田方が劣勢のまま決着はつかなかった。 しかし1575年4月に入ると織田軍は反撃して三好軍に勝利し、 三好一門は相次いで信長に降伏した。 5月には長篠の戦いで織田・徳川軍が武田軍を打ち破り、続いて美濃東部を武田家から奪還した。 後顧の憂いを絶った織田軍は同年9月、越前一向一揆を攻撃して完勝。加賀にも攻め込み南部の江沼郡・能美郡を征服した。佐久間盛政も越前攻めに参加した。 戦後、柴田勝家が越前の統治を任されると、盛政は引き続き柴田勝家の寄騎として配属された。 同僚は前田利家・佐々成政・不破光治・金森長近・簗田広正・武藤舜秀たちで、彼らはいずれも信長に重用された武将だった。 1576年5月、盛政は越前で本願寺教団と対立していた浄土真宗高田派の専修寺に対し、門徒の武装を勧める書状を送った。 同月には府中で一揆が織田家に対する反乱を起こしており、盛政たちが挙兵を予測して対策を講じていた可能性がある。 また前年には柴田勝家も専修寺に武装を指示した。他方で徴税の一環として武器を納めるよう劔神社に命令した。 当時の越前は、滅亡した朝倉家を慕う領民たちが反織田家の活動を行うために改宗して一向一揆に参加するなど不穏な情勢が続いていた。 大規模な反乱に備えて柴田勝家や盛政たちは軍備の充実を急いでいたようである。 また朝倉家の残党は加賀一向一揆に合流し、柴田勝家が率いる北陸方面軍と戦い続けることになる。 同月、畿内では保田安政が石山本願寺攻めに参加。苦戦の末に強敵・雑賀衆を敗走させた。 11月、加賀・越前の一向一揆が挙兵。織田家の梁田広正が守る加賀大聖寺城などを攻撃した。 梁田は善戦して敵を撃退したが、すぐに加賀の国中の一揆が挙兵して大軍で押し寄せた。 盛政は柴田勝家の指示で援軍として駆けつけ、一揆に奪われた城砦を奪還。 この戦いでは柴田勝政とその軍勢も奮闘して敵を多数討ち取った。 戦後、加賀の旗頭だった梁田とその寄騎たちは尾張に呼び戻された。 一方、佐久間盛政は大聖寺城の支城である日谷城に駐留し、次いで大聖寺城に移った。 この異動により盛政は梁田の後任として加賀の旗頭に据えられたとみられる。 ※尾張へ戻った梁田は、織田家当主となった織田信忠(信長の嫡男)に仕えた。  梁田は元々信長の馬廻り衆(親衛隊)だったので、加賀からの退去は左遷ではなかった可能性もある。  柴田勝家の与力で信長の馬廻り衆だった前田利家や佐々成政たちはその後も畿内の合戦に頻繁に動員された。同じ与力でも加賀攻略に専念した盛政とは違い、前田利家たちは信長の戦に参加するのが主任務だったのだろう。盛政は馬廻りを経験しなかったことから消去法で梁田の後任に選ばれたのかもしれない。 勿論盛政が信長から期待されたからこその人事だった。 長から期待されたからこその人事だった。

加賀平定戦[編集]

加賀へ移った佐久間盛政は織田方の城砦を改修して守りを固める一方、諸将と協力して一向一揆の城砦を攻略していった。 この頃には旧国主・富樫家の遺臣や寺社、一向一揆から離れた国人衆や僧侶が合流し、能登国を治めた畠山家との同盟交渉も進展するなど織田家が優勢になっていた。

当時の北陸地方では、一向一揆と越後の上杉謙信が抗争を続けていた。 織田軍が快進撃を続けた1575年、将軍足利義昭や武田勝頼、石山本願寺が北陸の一向一揆と上杉家の仲裁を行った。 翌年に一向一揆と上杉家の同盟が成立。上杉謙信は、一向一揆の背後を脅かす越中・能登の親織田派への攻撃を開始した。 上杉軍は加賀にも攻め込み、敵対していた現地の国人衆に力ずくで同盟を認めさせた。 翌1577年、畠山家も上杉軍の攻撃を受け、七尾城に籠城して織田家へ救援を要請した。 しかし加賀北部は一向一揆の勢力圏だったので、織田軍が通行できる状況ではなかった。 同年9月、手取川の戦いが行われた。 規模や戦闘が実際に行われたかどうかも不明な点が多いが、いずれにしても上杉軍の作戦により織田家は越中・能登の協力者を失った。 七尾城も陥落し、畠山家の家中の親織田派は粛清された。

当時の佐久間盛政は、織田軍と一向一揆が奪い合っていた御幸塚砦を確保して大規模な改修を行った。 御幸塚砦は加賀国小松の近くにあり、北国街道を押さえる加賀中部の重要拠点だった。 上杉軍や一揆の軍勢が南下したら必ず襲撃しただろう拠点である。 盛政はこの砦に駐留して、加賀一向一揆の大将格だった若林長門守と対峙した。 その間に織田家の北陸方面軍は加賀南部の完全制圧を目指して行動した。

同1577年冬頃、加賀南部の谷城を柴田勝家の一門衆・柴田義宣が包囲。 柴田義宣が戦死すると、養子の柴田勝安(佐久間盛政の弟)が領地と任務を引き継ぎ、翌年城を攻略した。 柴田勝安は以降2年に渡り現地の一揆と戦い続けて、ついに彼らを屈服させた。その後は善政を敷いたので、現地の情勢は落ち着いた。 勝安は義父を供養するために義宣寺という寺を建てさせた。 柴田勝安と柴田勝政を同一人物とする説によると、柴田勝家は養子の勝政(当時の名前は勝安)を戦死した義宣の養子にして家督を継がせた。

翌1578年、上杉謙信が死去して越後で内乱が勃発。(御館の乱) 濃尾地方の織田軍は越中に攻め込み、上杉軍を撃破して越中に拠点を確保し、北陸の友軍を支援した。 越前と加賀の織田軍は加賀北部への侵攻を開始。佐久間盛政、拝郷家嘉、徳山則秀らが活躍した。

1580年に入る頃には近畿や中国地方でも織田家が優勢になっていた。 同年3月、柴田勝家は加賀北部を制圧するために1万5千人の大軍を編成し、佐久間盛政と柴田勝政が先鋒を務めた。 盛政は畠山家の遺臣・長連龍と協力して、一揆の拠点だった加賀光徳寺などを攻め落とした。 佐久間盛政、柴田勝政、拝郷家嘉、徳山則秀、長連龍が各々兵を率いて北上。各部隊は連携して途上の一揆側の施設を襲撃、焼き討ちした。 この時、佐久間勢は山道を進んだ。加賀の国人衆を加えて、さらに一揆との戦いを通じて山岳戦に慣れていたのだろう。 佐久間勢は能登まで進撃して末森城を攻撃。敗走した敵将を追って加賀へ戻り、加賀の霊峰・白山近くにあった鳥越弘願寺を包囲した。 盛政は寺に織田家への協力を求めたが、拒否された。(敵将の引き渡しを要求したと思われる) 佐久間勢は弘願寺を焼き討ちした。 ※鳥越弘願寺は、本願寺教団を黎明期から支えた寺院だった。  末森城の守備には三河一向一揆の残党が参加していた。   弘願寺を焼き払った佐久間勢は南下して他の織田軍と合流し、各地を制圧した。そして加賀一向一揆最大の拠点、金沢御堂(金沢御坊、御山)の攻略に取り掛かった。 佐久間勢は御堂の周辺にあった砦を全て攻め落とし、御堂を孤立させた。 同1580年4月、盛政は調略で現地の領民を味方につけて、籠城を指揮した僧侶たちを降伏させた。 僧侶たちは御堂を佐久間勢に引き渡し、各々の寺へ帰った。 戦が終わると盛政は御堂に留まり、軍事要塞となっていた金沢御堂を金沢城と改名して改修工事を行った。 現在まで続く金沢の城下町と百間堀は、佐久間盛政が治めた時期に基礎が作られた。

加賀平定は畿内の織田軍が行った石山本願寺の包囲戦にも影響を与えた。 本願寺の法主顕如は交渉の末に石山本願寺から退去した。 しかし後継者の教如は石山本願寺で籠城を継続し、織田家に対する徹底抗戦を主張して各地の門徒に檄文を送った。 加賀では白山周辺の一揆が織田軍と戦い続けた。

同1580年6月、佐久間盛政は白山麓の鳥越城を攻略するために出陣した。鳥越城は加賀と能登を結ぶ重要拠点であり、佐久間勢が焼いた鳥越弘願寺の近くにあった。 迎撃した一揆の軍勢と佐久間勢は二度の野戦を行い、佐久間勢は惨敗して多数の死傷者を出してしまい、見かねた柴田勝家は一揆側に和睦を持ち掛けた。 一揆の軍勢の主力だった山内衆は多数の銃兵を抱えていた。山内衆は領内で鉄砲の製造を行っていたという説もある。

鳥越攻めの失敗は盛政にとって大きな痛手となったが、加賀一向一揆は織田軍を加賀から駆逐できるだけの軍事力をすでに失っていた。 翌月には北陸方面軍が能登と越中にも攻め込み、越中の織田軍と合流して順調に勢力を拡大した。

同1580年8月、石山本願寺から教如たち主戦派も退去した。 その直後に、佐久間家の出世頭だった佐久間信盛、信栄父子が織田信長から書状で弾劾されて、出奔した。 佐久間家出身で信盛の与力だった保田安政は、信長の仕打ちに落胆して居城から退去し、紀州根来に引き籠った。安政は後に北陸方面軍に加わった。 佐久間信盛の失脚は遠く加賀にいた佐久間盛政にも衝撃を与えたようで、盛政は自ら進んで屋敷で謹慎した。 だが信長はすぐに盛政を復帰させた。

同年10月、上杉家の内乱を制した上杉景勝が加賀一向一揆への支援を再開した。 このため織田家に従っていた加賀国人衆の一部が挙兵して織田家に敵対した。 現地へ派遣された佐久間盛政と柴田勝政は、勝利して反乱を鎮圧した。

翌11月、白山周辺の一揆は和睦交渉の為に代表者を加賀松任城へ送り出した。 ここで柴田勝家は一揆側の代表者を皆殺しにして、彼らの首を近江安土の信長へ送った。 事件の直後に佐久間盛政は鳥越城を攻撃し、指導者を失った一揆の軍勢を攻め崩して城を奪った。 そして捕まえた一揆勢を磔にして見せしめとした。 同時期、加賀一向一揆の指導者だった若林長門守も織田家によって殺害された。盛政が謀殺したとする史料もある。 盛政は白山周辺の他の城砦も攻め落として、加賀の征服事業を完了させた。

※織田家と石山本願寺の和睦の条件には、加賀国で織田軍と一揆の軍勢が停戦し、織田軍が占領地から撤退するすることも含まれていた。 白山一揆の指導者たちが、「多数の同朋を殺戮した冷酷非道な織田軍」の城に出向いたのは、この和睦も関係していた可能性が考えられる。 代表者たちは、一揆に参加した国人衆の権益を織田家に認め、一揆は上杉家と手を切って織田家に従う、といった落としどころを考えていたのかもしれない。 柴田勝家が一揆の代表者たちをはじめから殺害するつもりで招いたのか、あるいは交渉が決裂したために殺したのかは不明。 ただし柴田勝家はその後も加賀や能登の国人衆を呼び出して殺害することがあった。 生一本な武人だった柴田勝家にも策略家としての冷酷な一面があった。 この時期の謀殺について盛政が実際にどの程度関わっていたかは不明だが、少なくとも上司や同僚は謀略にも長けていた。

鳥越城の攻略後、同城には柴田勝家麾下の吉原次郎兵衛が、隣の二曲城には同じく毛利九郎兵衛と三戸田久次郎が駐留した。 彼らが最前線に配置されたことや佐久間家と柴田家の付き合いを考えると、佐久間盛政との関係は良好だったと思われる。 戦後、加賀平定の一番の功労者だった盛政は、織田信長から加賀北部の石川郡と河北郡に13万石の領地を与えられた。 (同郡に領地を与えられた時期や石高には異説がある) 加賀の諸将は盛政の与力となった。盛政は20代の若さで国持ち大名となり、その軍勢は以後も北陸方面軍の主力を担い続けた。

上杉家との戦い[編集]

1581年2月、柴田勝家は北陸平定の経過報告と京都で開催される馬揃えの行事に参加するために、養子の柴田勝豊を連れて上洛した。 他には柴田勝政、前田利家、佐々成政、不破光治、金森長近、原長頼、神保長住らが参加した。 北陸方面軍の主要な武将たちが離れたため、北陸方面は手薄になっていた。

※朝廷に圧力を加えるために行われたともいわれるこの時の馬揃えだが、当時の帝と織田家の関係は良好だった。 さらに後に皇位を継がれたのは、馬揃えの当時、織田家臣団が信奉した親王の御子だった。 馬揃えは威圧よりも政情安定を広く知らせる宣伝を兼ねたお祭りだったようである。 そしてこの晴れがましい催しに、盛政は参加しなかった。前年の佐久間信盛の失脚が影響したのかもしれない。

一方、北陸で織田家と対峙する上杉家は、密かに反撃の準備を進めていた。 翌3月、上杉家重臣の河田長親は越中と加賀の国人衆を扇動し、両国の織田家拠点を同時攻撃させた。 河田の挙兵から僅か三日後、加賀白山では各地から一揆の軍勢が集結して鳥越城と二曲城を包囲した。

佐久間盛政は兵を集めて現地へ急行したが、間に合わず両城は陥落。城将たちは戦死し、守備兵も尽く討ち取られるか捕虜にされてしまった。 盛政は悔んだが、落城の後だったので一旦は撤退の指示を出した。 しかし盛政は悔恨の念が強すぎたのか、引き返して一揆の軍勢と戦い、結果として大勝利を収めた。 この時の佐久間勢の戦いぶりは凄まじく、以後盛政は鬼玄蕃と呼ばれて恐れられた。

翌1582年も白山の一揆勢は挙兵したが、事前に調略を進めていた盛政は一揆を鎮圧した。 さらに徹底的な残党狩りを行い、一揆方の集落を襲撃して焼き払った。 この苛烈な作戦により、遂に加賀一向一揆は解体消滅した。 白山一揆との戦いでは、盛政の末弟で柴田一門の養子になった柴田勝之が初陣で参戦して奮闘し、織田信長から賞賛された。

同1581年には加賀・能登・越中の親上杉派や一向一揆の国人衆が集結して能登国の荒山城に籠城し、荒山合戦が始まった。 能登を治めた前田利家は救援を要請し、柴田勝家は佐久間盛政たちを派遣した。 盛政は諸将と協力して荒山城を猛攻撃したので城はすぐに陥落し、救援に駆けつけた上杉軍は何もできず撤退した。 (『佐久間軍記』に記された合戦だが、本能寺の変後に起きた荒山合戦の年代が間違えて記された可能性あり)

1582年1月、佐久間信盛が死去した。 翌2月、織田信忠が大軍を動員して武田家を滅ぼした。柴田勝之も従軍して戦功を挙げた。

同年5月、本能寺の変で織田信長、信忠父子が死去。 本能寺の変の後、柴田勝之は越中に赴いて佐々成政に仕えた。時期は不明だが成政の娘婿になり佐々の名字を名乗った。 保田安政はすでに柴田勝家に仕えていたので、佐久間兄弟は揃って北陸で再会した。

荒山合戦~賤ヶ岳の戦い直前[編集]

本能寺の変が起きた時、北陸の織田軍は上杉家の魚津城を攻撃中で、主力は越中に展開していた。 佐久間盛政は別働隊を率いて越中松倉城を攻撃し、魚津城の救援に向かう上杉軍を足止めしていた。 魚津城を攻め落とした直後に上方の異変を知った柴田勝家は撤退を決断。盛政も城攻めを止めて従い、加賀へ引き揚げた。 また能登国の情勢が不穏になっていたので、前田利家は舟を使って急いで能登へ戻った。

柴田勝家は速やかに越前へ戻り、明智光秀と戦う準備を進めた。 勝家は柴田勝豊、柴田勝政、保田安政の軍勢を近江へ派遣し、前田利家にも出陣を促した。 しかし前田利家は能登の情勢を理由に挙げて、出陣を断った。 盛政も近江に出陣した形跡が見つかっていない。加賀の織田軍は能登の争乱に備えて待機していたのだろう。 結局北陸方面軍は柴田勝豊たちが近江北東部(羽柴秀吉の領地。明智光秀に味方した京極高次が占領していた)を制圧しただけで、織田信長の弔い合戦には参加できなかった。

山崎の戦いで羽柴秀吉が明智光秀を倒した後、尾張国清須で織田家の今後を決める清須会議が行われた。 柴田勝家は柴田勝政を伴い出席した。 会議の結果、柴田勝家は勝豊たちが明智方から奪還した近江北東部を手に入れた。だが秀吉は京都がある山城国を含めて遥かに多くの地域を治めることになり、その勢力は著しく強大化した。 そのことを危惧した柴田勝政は、秀吉を殺害するようにと柴田勝家に進言したが、勝家は同士討ちをしている場合ではないと答えて却下した。

清須会議の後、能登では有力寺院の天平寺が織田家に敵対し、越後へ亡命していた国人衆を呼び戻して挙兵した。 天平寺は要害の石動山を本拠地とし能登の国人衆に強い影響力を及ぼした強大な組織であり、北陸で猛威を振るった一向一揆が能登国に浸透しなかったのは、天平寺の存在があったからだった。 織田信長が存命だった頃、織田家は天平寺の寺領の大半を没収した。 また能登国人衆の温井家や三宅家などは織田家に降ったが、彼らに恨みを持つ長連龍に攻撃されて逃亡し、故郷へ戻る機会を窺っていた。 上杉景勝は能登へ戻る国人衆に兵を貸し、さらに後詰の軍勢を派遣する準備を進めた。 反織田家の軍勢は、能登と越中の国境にある石動山と荒山に籠り、荒山では既存の砦の改修工事を始めた。

※当時の上杉家は宿敵だった北条家と和睦の交渉を進めて背後を固めていた。 上杉家が越中・能登の反織田勢力を糾合して北陸方面軍と対決するには都合の良い時期だった。 本能寺の変の直後に信長の元馬廻り衆だった前田利家が明智討伐よりも能登に留まることを選んだ事実を考えると、北陸の情勢は深刻で荒山合戦は北陸の勢力図を塗り替える可能性があったかもしれない。

天平寺が挙兵すると、前田利家は柴田勝家と佐久間盛政に応援を要請した。 要請を受けた盛政からも柴田勝家に事態を報告すると共に、情勢が逼迫していたため直ちに出陣した。 盛政と拝郷家嘉は、僅か二日で兵を集めて荒山の近くの高畠という土地に入った。 この時点で荒山の砦の工事はほとんど進んでいなかった。

※拝郷家嘉の居城は加賀南部の大聖寺城で、兵の召集から現地入りまで二日は驚異的な速さになる。 おそらく盛政たちは天平寺の挙兵に備えて、予め兵を集めていたのだろう。

盛政と拝郷は現地の人々の協力を取り付け、荒山の砦改修の情報を知ると、直ちに出陣して荒山へ向かった。盛政は斥候を出して状況を把握すると、反乱軍の主力数千人が籠る荒山を猛攻撃した。佐久間勢の猛攻を受けて敵軍の指導者は尽く戦死。 指揮官を失った敵軍は敗走して石動山へ向かったが、退路に回り込んだ拝郷勢に捕捉されて壊滅した。

友軍を失い孤立した石動山は前田利家が制圧して反乱を鎮圧。 上杉軍が送った援軍は間に合わず撤退した。 合戦の結果、織田家は能登と越中北部から上杉家の影響力を排除することに成功した。 その後は佐々成政と傘下の越中国人衆が独力で上杉軍を抑え込み、北陸の情勢は安定した。

※荒山合戦における佐久間盛政の働きは、350年後に日本陸軍の戦史研究チームから絶賛された。 『第九師団管古戦史』では、参考にした史料群から佐久間盛政の働きについて、 ・事態を想定していた。速やかに出陣した ・現地の住民を味方につけた ・戦機を見逃さなかった ・諸将とよく協力した ・手柄を前田利家に譲った(佐久間勢が討ち取った敵将たちの首を、盛政は前田利家に譲った。能登を安定させるためか) 等々を挙げ、盛政の采配と戦術眼を高く評価した。 その頃、中央では羽柴秀吉が清須会議の約束違反の築城を行ったり、織田信雄と滝川一益の対立を煽るなど内紛の火種を作っていた。 柴田勝家は近江長浜を統治する養子の柴田勝豊を通じて秀吉と交渉の機会を設けて、前田利家、金森長近、不破勝光を派遣した。 一方で柴田勝家は近江と越前を結ぶ兵站基地として国境の柳ヶ瀬という土地(の中尾山)に玄蕃尾城を築かせた。 城の名前に「玄蕃」が入っていることから、佐久間盛政が築城または改修を行ったという説がある。

11月、柴田勝家は軍勢を近江へ派遣した。 12月、秀吉は5万の大軍を率いて長浜城を包囲。長浜城主の柴田勝豊は降伏し、家臣団と軍勢は羽柴軍に組み込まれた。 さらに羽柴軍は江北で砦群の構築を始めた。

1583年3月、秀吉の専横を憂慮した柴田勝家は雪解けを待たず挙兵。諸将を従えて南下した。 対する秀吉も大軍を揃えて北上した。 近江に集結した柴田軍の兵数は2万~4万5千、羽柴軍は5万~12万ほどだったとされる。※ 佐久間兄弟は盛政、勝政、(勝安)、安政が賤ヶ岳の戦いに参戦した。佐々勝之は越中に留まった。

※羽柴軍の兵数は複数の史料で10万人以上の人数が記されているが、当時の情勢でそれほどの大軍を1つの戦場に動員できたのかどうかは疑問視されている。

賤ヶ岳の戦い[編集]

柴田勝家は清洲会議以後、羽柴秀吉との対立を深め、天正11年(1583年)ついに両者は近江国余呉湖畔で対陣する。当初、両者は持久戦の構えを取っていたが、従兄弟で勝家の養子であったが秀吉側に寝返っていた柴田勝豊の家臣が密かに盛政の陣に駆け込み、秀吉が大垣に赴いていて留守であることを伝えた。

これにより盛政は中川清秀の砦を急襲する作戦を勝家に提案した。当初はこれに反対した勝家であったが、盛政の強い要望により妥協し、「砦を落としたらすぐ戻ること」という条件つきで承諾した。盛政の急襲作戦は見事に成功し、盛政は清秀を大岩山で討ち取り、賤ヶ岳の戦いの緒戦を勝利に導いた。盛政はこの勝利を足がかりにして戦の勝敗を決しようと、次に羽柴秀長の陣を討つべく準備にとりかかっていた。この後、賤ヶ岳砦を守備する桑山重晴に対して「降伏して砦を明け渡すよう」命令しており、桑山は「抵抗は致さぬが日没まで待って欲しい」と返答、賤ヶ岳砦の陥落も間近であった。

しかし、琵琶湖を渡って船で上陸した丹羽長秀が増援として現れ、日没頃より砦から退去する筈だった桑山隊と合流して攻勢に出た為に賤ヶ岳砦の確保に失敗。この機を待っていた秀吉が、かねてから準備していたとおり強行軍で戦場に戻ってきたため、盛政は敵中に孤立してしまった。この時、前田利家の部隊が動かなかったため、盛政の部隊と勝家の本陣の連絡が断たれた。

結果的に勝家軍は秀吉軍に大敗し、盛政は再起を図って加賀国に落ち延びようとした。

賤ヶ岳の戦いの柴田軍の敗因[編集]

『柴田合戦記』 ・賤ヶ岳の戦いのすぐ後に成立。著者は大村由己(秀吉の祐筆) ・柴田勝豊が秀吉に降ったのは、勝豊が傲慢な佐久間盛政を嫌っていたため。 ・羽柴軍の砦を襲撃した盛政の活躍と雄姿を絶賛している。 ・奇襲作戦については、それを柴田軍の敗因とは記していない。柴田軍が出てきたことを秀吉が喜んだ描写はあるが、あくまで堂々と決戦しようという意気込みである。 ・秀吉の帰還を知った柴田軍は動揺したが、総大将の柴田勝家は立派な人物だったので将兵は必死に戦い、柴田軍・羽柴軍ともに多数の戦死者が出た。 『太閤記』 ・成立は江戸時代初期。著者は小瀬甫庵(前田家の家臣) ・秀吉と関係ない、前田家が活躍した北陸の合戦も詳細に記述。そのおかげで荒山合戦での盛政の活躍もしっかり描写されている。 ・柴田勝豊が秀吉に降った理由は、『柴田合戦記』のそれに加えて、柴田勝家が問題のある人物だったから。ただし降伏した柴田勝豊を厳しく批判もしている。 ・奇襲作戦の経緯として、織田信孝を救援する手立てが必要となり、山路正国が奇襲作戦を盛政に提案。盛政は賛成して柴田勝家に進言し、その際に柴田勝家から戦果を挙げたらすぐに引き揚げるよう命じられた。盛政は大岩山、岩崎山を奪取した後、勝家に催促されても引き上げなかった。そうしている内に秀吉が近江へ帰還した。 ・ただし撤退戦では奇襲部隊も柴田勝政の軍勢も奮戦したことが詳しく描写されている。 ・茂山に前田利家が布陣していることを頼みにして、盛政は羽柴軍に決戦を挑もうとしたが、続々と集結する羽柴の大軍を見て北国勢の後方にいた部隊が逃げ出した。そこへ羽柴軍が総攻撃を行って勝利した。 ・羽柴軍に囚われた盛政の発言「勝家様の指示通りに引き上げていれば、こんなことにはならなかった。戦果を敗北で失わず、上方勢を侮らなければ~~」 ・盛政は処刑される際、顔色一つ変えず首を刎ねられた。

『太閤記』では盛政の慢心が敗北を招いたが、撤退戦での活躍や敵前逃亡した部隊のことも記されている。 敵前逃亡があったことについて、『太閤記』と同時期に成立したとみられる史料の記述を並べてみる。

『渡辺勘兵衛記』 ・撤退戦で奇襲部隊は善戦。 ・柴田勝政の軍勢は羽柴軍の銃撃を受けて負傷者多数、そこへ羽柴軍が攻めかかったので総崩れに。しかし尾根道の高みに2千ばかりの敵軍が布陣していたので、勝政勢は(友軍を頼みにして)そこで踏みとどまった。 ・両軍は二時ほど睨み合っていたが、急に柴田方が動揺して崩れたので、羽柴軍が追撃して勝利した。 ・奇襲作戦が柴田軍の敗因とは記されていない。 ・『太閤記』には渡辺勘兵衛の活躍も記されており、『渡辺勘兵衛記』の方が先に成立していて小瀬甫庵が参考にしたか、渡辺勘兵衛に取材した可能性が考えられる。 『一柳家記』 ・秀吉は夜通しで近江へ帰還。羽柴軍は翌日の午前3時頃に大岩山へ攻めかかる。 ・盛政はすでに撤退を始めていたが、大軍だったので午前4時頃まで掛かった。奇襲部隊の撤退は速かった。 ・北国軍(奇襲部隊か勝政勢)が雨のように矢を放ち羽柴軍を足止め。盛政は諸将の軍勢を集め、殿軍を務める軍勢を待ち、引き返して羽柴軍と戦うことを繰り返しながら撤退。羽柴軍にとって厳しい戦いだった。 ・やがて盛政勢(勝政勢?)は敗北し、敵味方入り乱れて凄まじい追撃戦が行われた。 ・盛政は敗北した軍勢を収容し、1万5千の軍勢を集結させて辺りで一番高い山に陣取り、決戦の構えを見せた。 ・羽柴軍の先鋒部隊は負傷者が出て疲労もしていたので休息。その間に秀吉が旗本部隊を率いて到着。後続も到着して羽柴軍は大軍になった。 ・決戦が始まり、まず羽柴軍から攻撃を仕掛けたが、北国軍の弓と鉄砲の射撃により羽柴軍に多数の死傷者が出た。 ・藤堂高虎の手勢が北国軍と銃撃戦を行い、さらに(北国軍と羽柴軍が)接近戦をしばらく行っていると、盛政の陣地に何らかの異変があって北国軍は敗北した。 ・その異変とは、馬が暴れて諸将の軍勢が驚いた、喧嘩が起きた、あるいは謀反人がいた、のいずれかである。 ・羽柴軍は勝ちに乗じて追撃を行った。北国軍は敗走したが、引き返して戦い討死した者も大勢いた。 『江州余吾庄合戦覚書』 ・撤退戦における奇襲部隊と勝政勢の善戦振りは、他の史料とほぼ同じ。 ・盛政は事前に撤退することも想定していて、退路に部隊を置いていた。そのため撤退は上手く進んだ。 ・だが(撤退を支援するために配置された)後方にいた部隊が逃走したため、敗北した。 『佐久間軍記』 ・秀吉は柴田軍の陣地を見て、防戦に努めることを決めた。 ・柴田勝家は佐久間盛政、中川の砦を攻め落としたらすぐに戻れと命じた。 ・大岩山を占拠した後、盛政は羽柴秀長の陣を攻めるために現地に留まった。 ・柴田勝政の軍勢が羽柴軍と戦ったとき、何人かが北陸方面へ逃走した。柴田勝家はその様子を見て、盛政に味方の逃走を阻止するよう指示を伝えた。 ・前田利家は軍勢を率いて移動し、柴田勝政に対して「貴公の軍勢は苦戦したので、我が軍勢が替わろう」と言ったが、柴田勝政は断った。前田利家と柴田勝政の兵が喧嘩を起こした。 ・佐久間七右衛門という人物が兵の逃亡を阻止しようとしたところ、騒動になった。

各史料で合戦の様子には差異があるものの、奇襲部隊の敗北は羽柴軍の総攻撃を受ける前の自壊から始まり、それは友軍の逃亡により生じた動揺と混乱がもたらしたものであることが分かる。 そこに戦後の事実として、 ・秀吉は前田家に加賀北部の2郡を加増した。 ことも考えると、逃走した部隊とは前田利家の軍勢だったことが推測できる。 そしてこの戦線離脱が原因で、奇襲部隊そして柴田軍は敗北した。戦場から離脱しただけの金森長近は十万石も加増されたりはしなかった。 また逃亡したのが別の軍勢だったなら、前田家家臣の小瀬甫庵は『太閤記』で紛らわしい書き方はしなかっただろうし、あるいは 逃走した部隊を率いた武将の名前をはっきり記しただろう。 こうしてみると「柴田勝家が盛政に早く撤退するよう指示した」や「盛政の慢心が敗北を招いた」という記述も疑わしくなってくる。 ただし『太閤記』を読んだ当時の前田家の人々や著者の小瀬甫庵には葛藤があったかもしれない。 『太閤記』の記述だけでも、前田勢が疑われるには十分だからである。 ――加賀百万石の繁栄の基礎を築いた偉大な藩祖と二代目の汚点を記すことはできない。敗因は佐久間盛政に負わせるが、盛政の活躍も記す。読者には察してほしい。 なお当時の前田家当主は三代目の前田利常で、当事者だった父と兄は故人で意見を求めることはできなかった。 また賤ヶ岳の戦いは織田家中の内紛であり、合戦当時は前田父子の行動は特に世間から咎められず、江戸時代になってから価値観の変化で問題視されるようになり各史料は曖昧に記述した、という可能性も考えられる。 賤ヶ岳の戦いにおいて、奇襲作戦が成功して秀吉が戻ってくるまでの間、つまり柴田軍が優勢だった時も、山路の他に柴田軍へ戻った武将は結局一人もいなかった。

最期[編集]

落ち延びる途上、盛政は越前府中付近の中村の山中で郷民に捕らえられた。命運の尽きたことを悟った盛政は、自ら直接秀吉に対面したいので引き渡すよう言った。引き渡されたとき、浅野長政に「鬼玄蕃とも言われたあなたが、なぜ敗れて自害しなかったのか」と愚弄されたが、「源頼朝公は大庭景親に敗れたとき、木の洞に隠れて逃げ延び、後に大事を成したではないか」と言い返し、周囲をうならせたという。

秀吉は盛政の武勇を買って九州平定後に肥後一国を与えるので家臣になれと強く誘った。しかし盛政は信長や勝家から受けた大恩を忘れることはできず、秀吉の好意を感謝しながらも、「生を得て秀吉殿を見れば、私はきっと貴方を討ちましょう。いっそ死罪を申し付けて下さい」と願った。秀吉は盛政の説得を諦め、その心情を賞賛してせめて武士の名誉である切腹を命じたが、盛政は敗軍の将として処刑される事を望んだ。そのため、秀吉に「願わくば、車に乗せ、縄目を受けている様を上下の者に見物させ、一条の辻より下京へ引き回されればありがたい。そうなれば秀吉殿の威光も天下に響き渡りましょう」と述べた。秀吉はその願いを聞き届けて盛政に小袖二重を贈るが、盛政は紋柄と仕立てが気に入らず、「死に衣装は戦場での大指物のように、思い切り目立ったほうがいい。あれこそ盛政ぞと言われて死にたい」と大紋を染め抜いた紅色の広袖に裏は紅梅をあしらった小袖を所望し、秀吉は「最後まで武辺の心を忘れぬ者よ。よしよし」と語って希望通りの新小袖2組を与えた。

盛政は秀吉により京市中を車に乗せられて引き回されたが、その際に「年は三十、世に聞こえたる鬼玄蕃を見んと、貴賤上下馬車道によこたわり、男女ちまたに立ち並びこれを見る。盛政睨み廻し行く」とある。その後、宇治・槙島に連行されて同地で斬首された。享年30。秀吉は盛政の武辺を最後まで惜しみ、せめて武士らしく切腹させようと連行中に密かに短刀を渡す手配もしたが、盛政は拒否して従容と死に臨んだという。盛政は処刑される際、顔色一つ変えず首を刎ねられた。

辞世の句[編集]

「世の中を廻りも果てぬ小車は火宅の門を出づるなりけり」。

後世の評価[編集]

敵からは憎まれ恐れられた盛政だが、 ・優れた武将だったことは、多くの史料に記されている。 ・戦場の働きだけでなく、各地の城砦の改修でも活躍 ・織田家最大の敵だった本願寺教団の牙城加賀国を平定した功績 ・後の天下人秀吉からも認められた力量。 と名将だったことは間違いない。 織田信長や柴田勝家からの信頼は厚く、同僚や部下とよく協力し、死後も娘や弟たちが御家再興に尽力した。 等々、人望もあったようである。 ・荒山の急襲、賤ヶ岳の奇襲など意表を衝く戦術で敵を圧倒した稀代の軍略家として近年注目されている。