信正寺 (花岡町)

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信正寺(しんしょうじ)は、秋田県大館市花岡町七ツ館にある曹洞宗の寺院[1]。境内に七ツ館事件弔魂碑花岡事件死没者の供養塔があり、1945年から1953年までの間、花岡事件で死亡した華人労務者の遺骨を保管し、また戦後、定期的・臨時に開催された慰霊式などの事件関連行事の開催場所となるなど、花岡鉱山や花岡事件との関わりが深いことで知られる。

沿革[編集]

花岡事件関連の沿革は別に記す。

  • 戦国時代末期の創建[2]
  • 1945年8月30日、米軍機が米国人捕虜収容所に投下した物資が本堂に落下し、位牌堂の一部が破損[3]

住職[編集]

  1. 蔦谷達道 - 1945年の暴動事件発生当時の住職。1947年-1948年の戦犯裁判で事件について証言した。[4]
  2. 蔦谷達元 - 1964年の遺骨捧持団参加[5]、2001年の供養塔改修[6]時の住職
  3. 蔦谷達徳 - 2010年当時の住職。蔦谷家で3代目の住職。[7]

七ツ館弔魂碑[編集]

1944年5月29日に起きた七ツ館事件の後、藤田組花岡鉱業所は七ツ館坑の跡地に弔魂碑を建設したが、弔魂碑は後に信正寺の墓地に移された[8]

花岡事件関連[編集]

死者の供養[編集]

  • 戦時中、鹿島組花岡出張所「中山寮」の華人労務者が死亡した際に、当時の住職・蔦谷達道が鹿島組から依頼を受けて中山寮で読経を行ったことがあった[9]
  • 蔦谷は1947年-1948年に行われた花岡事件の戦犯裁判に証人として出廷し、1945年6月30日ないし7月1日に発生した暴動事件の直後に40-50人の葬儀をしたと証言した[10]

遺骨の保管[編集]

  • 1945年11月20日-23日に、鹿島組は華人労務者の遺体を発掘して火葬し、400余箱に分けて信正寺に預けた[11]
  • 遺骨は当初信正寺の本堂に置かれ、その後、1949年11月1日に鹿島組が信正寺の境内に納骨堂を造成した[12]
  • 1953年3月に、信正寺の納骨堂に納められていた華人労務者の遺骨は、中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会によって東京の棗寺へ移され、その後中国に送還された[13]

華人死没者追善供養塔[編集]

  • 1949年11月1日に、鹿島建設は信正寺の境内に造成した納骨堂と併せて華人死没者追善供養塔を建立した[14]

改修[編集]

  • 1991年6月に鹿島建設が石飛仁らと交渉した際に、鹿島の栗田法務部長から鹿島が5千万円を拠出して信正寺の慰霊碑を改修するとの提案があった[15]
  • 2000年11月に花岡事件の対鹿島訴訟で和解が成立した後、2001年3月に、鹿島建設の福田法務部長は信正寺を訪問して老朽化により崩壊が懸念されていた供養塔を改修することを申入れた。このとき、改修費と改修後の毎年の供養費を鹿島建設が信正寺に納付することも決められた。[16]
  • その後、鹿島建設の施工により改修工事が行われ、2001年7月1日に開眼式が行なわれた[17]

慰霊行事[編集]

  • 1950年7月1日に、華人死没者追善供養塔の前で、山本常松町長や蔦谷達道住職らが参加して、有志による慰霊式が行なわれた。その後、遺骨の東京移送前の1951年、1952年にも慰霊式が行なわれた[18]。また遺骨の東京移送前日の1953年3月25日に信正寺で慰霊式が行なわれた[19]
  • 1950年9月に花岡町の中国人遺骨発掘事業により鹿島組花岡出張所中山寮の跡地で華人労務者の遺骨(8箱分)が発掘された際に、花岡町と関連諸団体の共催により信正寺で慰霊式が行なわれた[20]
  • 1967年以降、毎年6月30日に、信正寺で日中不再戦友好碑を守る会により慰霊祭が行なわれた[21]
  • 1997年以降、2009年当時まで毎年7月1日に、信正寺で「7月1日花岡事件慰霊供養の集い」が開かれた[22]

遺骨捧持団への参加[編集]

  • 1964年末に、蔦谷達元住職は第9次中国人俘虜殉難者遺骨捧持団に参加して渡中した[23]

揉め事[編集]

  • 1995年7月1日に、石飛仁ら中国人強制連行調査記録の会の主催で、信正寺で「花岡事件の被害者・劉智渠が語る花岡事件の真実」と題したシンポジウムが開かれた[24]。石飛(2010,pp.310-311)によると、シンポジウムでは、劉智渠が戦後、鹿島から5万円を受領していたことを「告白」する予定だったが、劉は当日欠席し、劉を探して信正寺にやってきた中国人強制連行を考える会のメンバーが集会に乱入して石飛らに暴行を加えるという騒動があった。

付録[編集]

地図[編集]

脚注[編集]

  1. 石飛(2010)p.318
  2. 金子(2010)p.405
  3. 野添(1993)pp.83-84、野添(1992)p.197
  4. 石飛(2010)p.334
  5. 野添(1993)pp.217-218。野添(1993,p.31)では、1945年10月に鹿島組から遺骨を預かったのも蔦谷達元としている。
  6. 石飛(2010)pp.318,319
  7. 金子(2010)p.405
  8. 石飛(1997)p.97、野添(1992)p.118
  9. 金子(2010)p.405、石飛(1997)p.252、野添(1993)p.225
  10. 金子(2010)p.405
  11. 新美(2010)p.305、野添(1992)p.224。金子(2010,p.405)は、同年10月に米占領軍により遺骨400余柱が発掘された、としている。
  12. 金子(2010)p.405、李(2010)p.99、新美(2006)p.305、杉原(2002)p.年表4、石飛(1997)pp.252,253-254、石飛(1996)p.103。金子(2010,p.405)および石飛(1997,pp.253-254)は、信正寺(住職)が鹿島組に納骨堂建設を要請した、としており、李(2010,p.99)は、宗教団体や現地市民、市民運動団体からの要望を受けて建立した、としている。
  13. 金子(2010)p.405
  14. 李(2010)p.99、新美(2006)p.305、杉原(2002)p.年表4、野添(1992)p.225。石飛(1996,p.164)は、同年10月に建立した、としている。
  15. 石飛(2010)p.303
  16. 石飛(2010)pp.359-361
  17. 石飛(2010)pp.318-319
  18. 金子(2010)p.405
  19. 新美(2010)p.306
  20. 杉原(2002)pp.171-174、石飛(1997)p.256。金子(2010,pp.404-405)は、花岡町の山本常松町長の依頼で信正寺の納骨堂に遺骨が納められた、としているが、杉原(2002,pp.173-174)によると、このとき発掘された遺骨は納骨堂の遺骨とは別に先に東京の運行寺(棗寺)に移された。
  21. 金子(2010)pp.401-402
  22. 石飛(2010)p.341、金子(2010)p.406
  23. 野添(1993)pp.217-218
  24. 石飛(1996)p.168

参考文献[編集]

  • 石飛(2010) 石飛仁『花岡事件「鹿島交渉」の軌跡』彩流社、2010年、9784779115042
  • 金子(2010) 金子博文「解説」石飛(2010)pp.389-422
  • 李(2010) 李恩民「日中間の歴史和解は可能か-中国人強制連行の歴史和解を事例に」北海道大学スラブ研究センター内 グローバルCOEプログラム「境界研究の拠点形成:スラブ・ユーラシアと世界」『境界研究』No.1、2010年10月、pp.99-112
  • 新美(2006) 新美隆『国家の責任と人権』結書房、4-342-62590-3
  • 杉原(2002) 杉原達『中国人強制連行』〈岩波新書785〉岩波書店、2002年、4-00-430785-6
  • 石飛(1997) 石飛仁『中国人強制連行の記録-日本人は中国人に何をしたか』〈三一新書1164〉三一書房、1997年、4-380-97008-6
  • 石飛(1996) 石飛仁『花岡事件』〈FOR BEGINNERSシリーズ74〉、現代書館、1996年、4768400744
  • 野添(1993) 野添憲治『花岡事件を見た20人の証言』御茶の水書房、1993年、4-275-01510-X
  • 野添(1992) 野添憲治『聞き書き花岡事件』増補版、御茶の水書房、1992年、4-275-01461-8